想定外というのは自分の考えが及ばなかった出来事という意味で、
想定外のことが起きた時に動揺するようにできているのが人間で。
そのとき動揺の原因が自分以外であることを望むのは、
自分以外が原因であれば自分を責める必要がなくなるため想定外を受け入れやすくなるからだろう。
想定外のことが起きた時にとっさに自分の外に原因を見つけたがる傾向というのは、
そうやって生まれるのだろう。
2013年06月24日
想定外というのは自分の考えが及ばなかった出来事という意味で、
想定外のことが起きた時に動揺するようにできているのが人間で。
そのとき動揺の原因が自分以外であることを望むのは、
自分以外が原因であれば自分を責める必要がなくなるため想定外を受け入れやすくなるからだろう。
想定外のことが起きた時にとっさに自分の外に原因を見つけたがる傾向というのは、
そうやって生まれるのだろう。
2013年06月23日
うちの店(ほのじ)でライブをした。
小林頼司という伊勢崎在住のミュージシャンのライブだった。
音楽のことなんてよくはわからないけれど、
琴線に触れるミュージシャンとそうでないミュージシャンくらいはわかる。
彼はそういう意味で琴線に触れてくる。
葛藤をさらけ出すことで。
2013年06月20日
お客さんでもある知り合いのセンパイと久しぶりに一緒に飲んだ。
これがまたよく飲む方。
自分の酒量はほとんど省みることがないのに、
人が急ピッチで長時間やってると心配にもなる。
「普段はちっとも頭が働かないのに飲むと覚醒するんだよ。まったく」というのは昔からの口ぐせ。
店も4軒目のはしご酒となったころ、
いきなり何を言い出すのかと思ったら「釈迦の気持ちってわかる?」と切り出され。
「俺わかんないんだよね。釈迦もキリストも池田大作も。みんな本読むんだけど」と。
真顔でね。
私は控え目にうなずくばかりで。
わかんないよなぁと思いながら。
帰り道、
そういうセンパイがいるのは幸せなことだと思った。
センパイはたしか、
今年74才。
2013年06月19日
都合のよさは都合のよさでしかない、
というのは、
都合のよさは悪である、
とは違うんだよね。
自業自得だよ、
と、
自業自得だそれみたことか、
くらい違うんだよね。
2013年06月18日
優しくされたいのは誰でもそうにちがいなく。
優しくされなかったことで嫌な気分になってしまうのもきっと仕方がなく。
優しくされたいと意思表示をするのだってそれは自由だけれども、
それでも優しくされなかった場合に優しくできなかった者が糾弾されるのはいかがなものか。
仮にそれができなかったのではなく、
しなかったのだとしても。
2013年06月17日
太田で暮らすブラジル生まれの日系3世の方にお会いした。
3世というとちょうど今30代くらいの方が多い。
10才で両親と日本に来てそれから日本で暮らしていると言う。
「日系」と言えば日本人がブラジルに渡って後に結婚してできた家族の系統のこと。
今でこそ日本人以外の血も混じり家族の形は多様になってきているらしいが、
今でも断りがなく「日系」と言う場合には、
それは日本人同士から生まれた子孫ということになる。
ブラジルは移民の国で、
~系といった言い方をよくするのだとか。
きっとブラジルだけでなく、
国境が地続きの国や植民地の歴史を負った国ならばどこも当たり前にある習慣なのかも知れない。
そういう背景があってかどうか、
日系の方たちは家族をとても大事にする。
多様の民族の中で孤立しないための知恵が習慣となっているのだと思う。
けれども3世が4世となるにしたがって、
意識は外へ向いて 系統へのこだわりも少しずつ薄れているようにも思う。
少し前の日本と重なる。
2013年06月16日
料理というのは食材の生命力を提供するもので。
だから生命力の乏しい食材は扱いたくない、という風に料理人は考える。
そうは言っても世の中は生命力あふれる食材ばかりではなく。
むしろ生命力の乏しい食材であふれていたりして。
ややこしいのは、それにも生きる権利がある、なんて考えてしまう私。
生命力の乏しいものにも向き合い、
あわよくばそこに生命力を吹き込みたいという、
これはもう悲しい性と言っていい。
2013年06月15日
食べ物と飲み物がおいしいと、そこにいる人たちは仲良くなれる。
おいしい満足感と「おいしい」の共有が、閉じていた胸襟を開かせるのかもしれない。
それは食べ物だけでなく、
あるいは飲み物だけでもなく、
両方がおいしいと仲はますます良くなって、
さらにそれら二つの相性がばっちり合った時には、
これはもう仲良くならなかったらバチが当たるんじゃないか、
というくらいの雰囲気になる。
2013年06月13日
梅雨らしさもずいぶん増してきて、
朝から蒸し暑かった。
季節の変わり目はいつも体が重い。
気候に体が慣れるまでにはタイムラグがあるのだと思う。
こういう時はじたばたしてもどうにもならない。
いつか動き出すだろうと待つことにして、
ビールを飲んでいる。
2013年06月12日
「協力」って、基本的に当事者に対する外からの補助的なもので。
だから、程度の違いにもよるが、その協力者は責任をとらなくていいってことなんで。
たとえばサッカーのサポーターみたいなものから、普通にボランティアまで。
とにかく「本人が協力しているつもり」であればそれは、「協力」になる。
「責任をとらなくていい立場」の主体性は、
「責任をとらなければならない立場」の責任の重さに敬意を払うことに担保される。
それがない協力は協力という善意をまとった自己満足の押しつけになってしまう。
だから、協力が協力者にとって主体的なものであるためには、責任の重さに対する敬意が必要で。
大事なのは、
その責任の「重さ」は、「責任を取らなければならない立場」にしかわからないもので、
「責任を取らなくていい立場」が勝手に決める権利はない、ということかと思う。
2013年06月11日
自分が潔白であることを信じ続けるしか自分を保つエネルギーが残されていない時に、
「人間である限り潔白なんてないのだよ」なんて言ったって、
言われた方は受け取れるはずはない。
のだけど、
そのエネルギーはどこまで行っても、
自分を救ってはくれない。
なぜなら人間は、
潔白であろうとすることはできても、
潔白であり続けることはできないから。
2013年06月10日
お金は増えていくべきものと考えていた時代があり。
収入は増えるがこのままだと忙殺されてしまうと、
貧乏になった。
お金はあるに越したことはなく、
その前に必要なものに違いないが、
その優先度をあまりにも強くしすぎると、
人間というものの奥行き、
あるいは本質、
みたいなものに構っていられなくなる。
お金というのは無くなったら稼ぐもの、
くらいの気構えでちょうどよいのではないか。
お金の優先度が強くなっていることを疑わないこの風潮は、
いったいいつまで続くのだろうか。
2013年06月08日
あるとき依存してしまうことの怖さに気づいて。
初めて他者を意識して。
公平さばかりが気になるようになってとりあえず 一度は他者を否定してみて。
他者を否定すると自分も否定しなければ結局公平でなく。
葛藤もし、投げやりにもなり。
自分を受け入れるにはやはり他者を受け入れるしかないなと。
それは他者を受け入れるためには自分を受け入れるしかない、でもあって。
2013年06月07日
飲まない日はない、というくらいに日々お酒を飲み続けている。
あまり強い酒に手を出すことはなくなったが、
それでもこれだけ切れ目なく飲んでいれば同じだろう。
おそらくは飲まない方が体調もいいに違いない。
けれどもアルコールを口に運ぶのが腹が減ったから飯を食うのと同じくらい自然だから、
一向に止むことがない。
飲まないのはあまりに飲み過ぎた次の日くらいか。
まだ日も落ちぬ明るいうちからグラスにビールを注いで、
ただ、飲んでいる。