日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

5215声 変わらないように変わる

2022年08月19日

振り返れば相当変わっていることというのは、生活上に沢山あって、ときどき不安になる。例えば、映画を観るにもインターネットに繋がったテレビからレンタルできるし、音楽を聴くにも「アレクサ〇〇かけて」と言えば済む。物を介するビジネスモデル自体が変革してしまった。そんなことを、高校野球のテレビがついている蕎麦屋で蕎麦を啜りつつ考えていた。この店は昔から変わっていない、などと思っているのは客目線だからで、コロナの蔓延とUber Eatsの躍進にはじまり、メトロジャパンの撤退やらなにやら、取り巻く環境は劇的に変わっていて、いちいち対応しているのだろう。変わらないように変わるというのも、変ないいかただが、そんなしなやかな変わり方には、安心を感じる。

5214声 ブックタワー

2022年08月18日

立て続けに句集が届く。句集を対象にした賞の締め切りの関係で、晩夏から中秋にかけては句集の刊行ラッシュになっている気がする。今日届いたのは二冊。どちらも重鎮と呼べる俳人の作品で、読みごたえがありそう。机の脇が平積みになった句集が積んであるが、読み終えて再び頁を開きたくなる句集は意外と少ない。少ないがあるにはある。そういう時に、すっと目当ての句集が出てこない。この間、平積みで収納可能な「ブックタワー」なるものの存在を知り、欲しくなっている。これならば、背表紙が一覧できるので、探しやすい気がする。来月にほんの些細な俳句関係の副賞がもらえるので、それで買おうか。

5213声 壇のようなもの

2022年08月17日

ある俳人より電話があり、久しぶりに声を聞いた。明確なことは言わなかったが、ちいさな「壇」の中でいろいろと腐っている部分があるのだろう。作品に対しては誠実でいたい。

5212声 充電

2022年08月16日

猛暑続きである。お盆も終わり、街は徐々にではあるが常の様相に戻ってきている。今年は帰省することはかなわなかったが、三年ぶりの行動制限のない盆休みとなり、交通機関はかなり渋滞しているとの報道があった。そう思えば、半年くらい帰省していないのではなかろうか。しかしながら、この間、出かけた際に熊谷市まで足を延ばして登利平に寄り、鳥めしを買ってきたので、上州力の充電はできた気がする。竹弁当をおかずに松弁当を麦酒と一緒につまむという、贅沢極まりないことをやってしまった。胃がはちきれそうな満足感である。いささか、過充電気味であろうか。

5211声 太古の景色

2022年08月15日

見渡す限りの稲穂。まだ八月中旬なのでさほど色づいておらず、清々しい青さが広がっていた。昨日見た行田市のそんな風景を思い出していた。遥かに見えるのは古墳である。太古の昔から劇的には変わっていないであろう、風景。今日は八月十五日、終戦日である。

5210声 古代蓮

2022年08月14日

蓮を見に行った。本当は蓮見船などに乗りたかったのだが、昨日の台風を鑑みて船は諦めた。よって、以前から気になっていた埼玉県行田市の「古代蓮の里」へ出かけた。着いたのが昼になったしまったことは致命的で、蓮は当然ながらことごとく咲いていなかったが、ひとまず広大な蓮池を見れてよかった。早朝にこの蓮池と出会えていたら、感動すると思った。台風一過の炎天で過酷な暑さとなり、売店でうどんを啜ってへろへろになって帰ってきた。

5209声 直撃

2022年08月13日

いままさに台風が直撃中。ところによっては相当水も出ているらしく、各地での冠水や土石流も報道されている。ざわざわと落ち着かない、気分である。

5208声 映画を観る日

2022年08月12日

今日は映画を観る日と決めたので、朝から晩まで映画を観た。午前中はアンダードッグ。武正晴監督が、森山未來、北村匠海、勝地涼をキャストに迎えたボクシング映画で、前後編合わせ四時間半に及ぶ大作である。ずっしり重たいが、ボクシング映画の王道に則り、泥臭く、しかしドラマチックに長編を描く手際には恐れ入った。その後はインスタントラーメンで昼食を済ませ、小休憩。午前中の映画の余韻がボディーブローのように効いてくる。午後は軽めの恋愛映画でも、ということになるはずがない。「MINAMATA ミナマタ」を観ることにした。ジョニー・デップが製作・主演を務めた、水俣病をめぐる写真家ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスのノンフィクションドラマである。こちらもどっしりと骨太な作品であった。ハリウッド映画ながら虚飾を排し、真摯な向き合い方に作り手の意思が感じられた。見終えて夕方、だいぶ疲れた。しかし、映画は良いね。

5207声 恥

2022年08月11日

山の日。俳句、この頃はどちらかと言えば「作る」方に専念できている。専念できているのと、佳句ができるのは別な話だが、地道にやっていかなければならない。先日、四月に鼎談をしたことが記事になった同人誌が届いていた。内容に齟齬がないか眼を通さなくてはならないのだが、こういうのはこっ恥ずかしくて読めない。

5206声 Webに棲む日日

2022年08月10日

残暑厳しい日が続いている。Web句会の選を済ませ、別のWeb句会の投句をした。このところ、またWebの句会の出番が多くなってしまった。今週末にもひとつ句会の締め切りがあり、これを書いていて思い出した。こちらの句会は兼題がある。たしか、残暑と花火。残暑はまさに、さて花火は。庭で線香花火でもやってみようか。

5205声 かわいいめんたいこ

2022年08月09日

先月、坂口さんが5194声で「めんたいパーク群馬」と「新ラグジュアリー」のことを取り上げていた。実は、ということもないのだが、近場のめんたいパークには行ったことがある、すなわち、伊豆と大洗と群馬である。坂口さんは、「めんたいパークに行けば、明太子について学ぶことができるのだろうか。」と書いていたが、これができるのである。それぞれのパークには「工業見学」や「つぶつぶランド」という、学びについてのコンテンツというかアトラクションがあるので、ちょっと勉強になる。それぞれ特徴があるのだが、一番舌を巻いたのが「かわいい」ということである。外観、内観はもちろんのこと、徹底してポップで徹底してかわいいのである。明太子というと、どちらかと言えば大人向けの食品であり、酒のアテなんていう印象が濃い。それを払拭するかのように、テーマパーク性を重視して「子どもが喜ぶ」ということに全振りした施設であった。もちろん、大人が行っても、食欲や購買意欲を大いにくすぐられる。めんたいパークの影響か、この頃はプリっとした明太子を見ると、めんたいパークのマスコットキャラクター「タラピヨ」がチラつき、かわいいと感じるようになってしまった。もうすぐお盆休みという方も多いはずである。ぜひ、足を運んで体感してほしい。

5204声 夏野菜

2022年08月08日

夏バテ気味ということを、起床時の倦怠感で痛感しつつも、どうにか一日の終わりまでたどり着くと、ついつい缶麦酒に手が伸びてしまい、飲みすぎ、また同じことの繰り返しである。こんなことではいかん、と昨日は朝から散歩に出かけた。吟行がてら少し汗をかいて健康を取り戻そうという思いで歩いていると、野辺の無人野菜販売所に枝豆やらトマトなどが並んでいた。夏バテには夏野菜ということで、いくつか買って帰路についた。台所で水に浸して気が付いたのだが、これはこれで、麦酒を飲まずにはいられない。こうなると、冷やしトマトと枝豆で一杯やることに向って、一日が動き出す始末である。

5203声 写真一葉

2022年08月07日

これから、写真をプリントアウトしに出かけなければならない。或る会報に私の顔写真を載せるので、写真が一葉必要なのだと、連絡をもらった。メールにデータを添付して送信、とはいかず、現物が必要なのである。俳句の世界ではしばしばあることで、先方のE-mallアドレスが分かればそれで解決なのだが、郷に入っては、ということで、先方の申しつけに従うことにしている。ところで、先月は七夕があり、私はやはり芭蕉の句、もそうなのだが、その頃は『サラダ記念日』(俵万智著)も思い浮かぶ。久しぶりに書架から抜いてぱらぱらやっていると、次の一首が目に留まった。〈書き終えて切手を貼ればたちまちに返事を待って時流れ出す〉そうなのだ、こういう細やかなコミュニケーションの心の機微にこそ、詩歌の発露があるのだ。以前に、堀澤さんがここで書いていた文章の中で、この頃はなんでも「判断が早い」と書いていた気がする。たしかに、日々、丁寧なコミュニケーションができているだろうかと、書き終えての一首からいささか反省に似た気持ちさえ覚えた。「コミュ障」なんて言葉も良く聞く。相手の心に向けてコミュニケーションできているのか、これは、自分に向けて言っている。

5202声 絶命

2022年08月06日

曇りがちで暑さ和らぐ日だった。日中、信号待ちをしていたら、直ぐ脇の幹に甲虫がいた。何の気なしに角を持ち、べりべりと幹から剥がしてまじまじ見ると、全く動かない。すでに絶命しているのだと、そこで気が付いた。甲虫をまた元の幹に戻して、青信号を渡った。

5201声 一歩更新

2022年08月05日

四十。私の年齢なのだが、こう書くとじわじわと恐ろしくなってくる。思えば、このWEBサイトに携わったときは確か二十代後半だったので、まさか中年になっても相変わらずここで文章を綴っていることなど、全く想像していなかった。そして、じみじみ高齢化してきたと感じている。しかし、この「めっかった群馬」自体の構造は変わっていない(古いコンテンツばかりで恐縮だが)ので、深夜にPCの画面を見ていると、現在と過去がおぼろげになってくるような感覚がある。話は逸れるが、このWEBサイトは「WordPress」というソフトウェアで運営されている。バージョンアップなどしていないが、いまでも問題なく動いている。そして、素人ながら現在でもWEBでは普及しているソフトウェアであろうと思うが、他のサブスクリプションのサービスがあふれる中、いささかならず相当、時代に遅れている感じがする。そして、それでも良いというか、そんなことがあまり気にならない。それは、自身が時代に遅れているせいもあろうかと思うが、このブログというかコンテンツが、その本質だけはかろうじて見失っていないからと、自負できるからかもしれない。本質などと、偉そうに書いているが、こういうWEBサイトのコンテンツはやはり、更新されていないと、途端に古びる。年齢やコンテンツの古さとは関係なく、更新をやめた時点で、古びるのである。ささいなことでも、日々一歩一歩更新しているというところが大切である。それは、波風のある日々の中でとても難しいことで、半分、怠惰な自分自身に向けてこれを書いている。

5200声 出水

2022年08月04日

昨日から降り続いている雨の影響で、山形県の最上川流域を中心に河川が氾濫している。車や橋などが押し流されている報道の映像が痛ましい。少し前は「ゲリラ豪雨」いまは、それを引き起こす原因が「線状降水帯」にあるということで、新聞でよく目にする。私の住んでいるところにも少し行けば江戸川、近所には真間川があり、昔はよく水が出たと聞く。それを鑑みて、やや高台に住んでいるのだが、大雨の後はすぐ裏の梨畑から川のように水が流入してきて狭庭が水没してしまう。防災というのは一筋縄ではいかない。

5199声 煌めき

2022年08月03日

坂口さんに加わっていただいたことによって、この「鶴のひとこえ」も、ぐっと詩歌の成分が濃くなった。麦酒の成分も濃い、どうりで私には居心地が良いわけである。類は友を呼ぶというか、友は類を呼ぶというか。昨今のなかなか大手を振って帰郷できないような状況になってみると、このコーナーで私以外の執筆陣の文章から垣間見る群馬情報の断片が、煌めいて見える。

5198声 ラムネ片手に

2022年08月02日

「吟行」をしている。どこかに出かけて詩歌をつくることだが、この炎天下でも、おそよ「逍遥」などと程遠い形相になりつつ、そこらをほっつき歩いて地べたの蟻などを眺めている。私よりも何倍も蟻の方が働いているなぁ、などと手にもっているコーラをすこしおすそ分けしたり。効率の悪い取り組み方だとは思う。冷房の効いた部屋で団扇を仰ぎつつ歳時記をめくっていれば良いのだ。しかし、先週のことであるが、午後からの定例の句会の前に、地元の商店街を吟行していた。奥へ進むにつれ、すれ違うのは何やら浴衣の人が多くなってきたと思ったら、小さな鎮守で祭が開催されていた。この日の情報は事前にGoogleなどで調べていたが、全くヒットしなかった。もろもろ考慮したであろう、主催である商店街の方々の苦労が垣間見える気がした。祭の様子は盛況で、ステージでは地元のバンドが演奏し、境内におさまりきらぬほど、ヨーヨー釣りに各種焼き物の屋台にと、コロナ前に戻ったような光景であった。人波に揉まれつつラムネ片手に句帳をめくる時間は至福であった。こういうことがあるから、吟行はやめられない。現実の五感を働かせた上での想像は、やはり貴重である。この数年、こんな当たり前の機会を失ってきたことは、改めて大きな損失と感じた。