日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

691声 まにまにうとうと

2009年11月21日

からっ風。
吹きすさぶ日は、空が澄んで、赤城山の長い裾野まで、輪郭がはっきりと見える。
しかし、この音。
軒先で切れる風の音や、騒ぐ木々たちの音を聞いていると、
なんだか非常に行動意欲を削がれる。
机の前にいて、音楽を聴いて珈琲等を飲みながら、目の前の窓に広がる青空を眺めても、
いまいち興が乗らない。
ぼんやりと往時茫々とした記憶をもてあそんでいても、
粗ぶる風の音に、気が散らされる。
頬杖ついて、どうしたものかと考える。
考えてるまにまに、うとうと寝ている。

690声 折れた赤ペン

2009年11月20日

校正を見ている。
今度発売する予定の、「銭湯の本」の校正である。
進行状況をざっくり言うと、現在10分の5割あたりまでは出来ている。
いやいや、4割あたりかな。
書籍化とは言っているものの、私の様な出版素人が自費でやろうってんだから、
時間が掛かる。
そして、その作業の大変さ、手続きの煩雑さを実感している。
原稿作り、写真選定、校正確認などの作業が、一向に進まない。
机上の紙面には、珈琲の染みばかり増えて行く始末。
やがて、堪忍袋の緒、凧の糸、なんでも良いが、兎も角、切れる。
癇癪。
赤ペンをへし折り、そのままコートをひっ掴んで憤然として表へ飛び出す。
そうやって、夜な夜な近所の本屋へ行っては、
目に止まった本の奥付あたりをチラチラと見て、参考にしている。
参考になりそうな本の頁を捲っていて、
「本屋に並んでいる本は、流石にどれも良く出来てる」と、改めて感心する。
いくらか気持ちも落ち着き、コンビニで赤ペンと缶珈琲を買って、家へ戻る。

689声 夜空の口論

2009年11月19日

マラソンの開催日が、とうとう近づいて来ていると言うのに、
一向に体が仕上がっていない。
仕上がりは勿論、当日の10kmを完走できる体力を備える事だが、
現在の私の目測では、5,6kmが限界かと思われる。
当日は知人等数人と一緒に出場するのだが、その中の一人である肝臓女史などは、
仕事帰り、スポーツジムへ行ってトレーニングしているとの事だ。
話を聞いていると、なるほど、ジムには運動設備が整っていて、
トレーニングをする環境としては最適である。
しかし、エアコンで快適な室温に調節された室内で、
ルームランナーに乗っかってペタペタ走るのも良いが、それでは得られない事がある。
私は、ここでも頻繁に書いている様に、夜、自宅近所を走っている。
それは、毎日ではなく、距離も2,3kmと短いものだが、
社会人となって運動と縁遠くなった現在、非常に新鮮な体験をしていると実感している。
まず、真冬の寒風吹きすさぶ田圃の畦道を、よろよろと走ってると、
否が応でも体と対話する事になる。
「体が重い」
「何故重い」
「昨日の疲労が残っているのか」
「いや、夕食を食べ過ぎみたいだ」
「もう少しペースを抑えろ」
「分かった分かった」
「よし、体が温まって来たぞ」
「じゃ、ペースを少し上げるぞ」
「あと一周走れるか」
「いやいや、もう無理だ」
「おいおい、そこをなんとか」
最終的には、対話が口論になってくる。
それでも、対話によって、相手の機微を捉える事は、より良い連携に繋がる。
単にスポーツジムに行くお足が無い為に、裏の田圃を走る羽目になっている。
冬の夜空の下、寒風に煽られ、鼻水垂らして走っている最中、
温かいジムをひがみながら口論の日々を過す。

688声 猫と流れ星

2009年11月18日

今宵は月の姿が見えない為か、星の数が多く、瞬いて綺麗に見える。
日中、冬晴れだったので、日が沈んでからは放射冷却で一層冷え込みが強くなっている。
こう寒いと走るのも億劫なるが、半ば習慣となっている手前、
靴の紐を締めないと、何だか寝つきが悪い。
深いため息と共に、裏の田圃へと吸い込まれる。
いざ走り出すと、いつもより体が重い。
気温が寒くて、中々体が温まらない事もあるが、最大の要因は昨日の深酒だと推察する。
マラソン練習を、雨天中止にした昨日、この機会とばかりに缶麦酒を積んでしまった。
それがボディーブローの如く効いていて、足腰が覚束ない。
そんな時に、前方の暗がりから、「サッ」と道を横切る白い影。
驚いて、心臓が一寸飛び上がってしまったが、よく見てみれば、
いつも出くわす猫ではないか。
「まったく、人間を馬鹿にして居やがる」
憤然として縺れる足を進める。
彼方の夜空には、無数の星が瞬いている。
星座の名称には疎いが、それでもオリオン座と冬の大三角形ぐらいは見当がつく。
冬の大三角形に向かって走って行くのだが、誰かが夜空を後に引いて行く様で、
一向に星たちに近づかない。
走っては引いて、引いては走って、どんどん逃げて行く。
そんな事を続けていると、左方向に煌めきを感じて振り向いた。
瞬きの間に煌めいて消えた、流れ星であった。
白い夜空の星たちに比べると、いささか暖色で、誰かが夜空の後ろから、
ナイフで斜めに切り裂いて光が漏れた様にも見える。
一瞬だったので、あるいは自らの疲労による幻覚ではなかろうかと思ったが、
やはり現実に流れた方に分があると感じる。
次回は瞬間を逃さぬ様、しっかりと見たい。
流れ星を掴まえる事は出来ないが、今度、あの白猫が現れたら、
ケツを蹴っ飛ばしてやろうと決めている。

687声 夜更けの俳句仕分け作業

2009年11月17日

政治家のセンセイ方は、行政刷新会議ってので、事業仕分けに躍起になっている。
と言うテレビニュースが、現在、私の部屋の14インチアナログ式テレビに流れている。
一方私の方も、マラソン練習を雨天中止とした為、俳句仕分けに没頭している。
これは、先日開催された「第11回ワルノリ俳句ing」の句。
結果の掲載予定は今週末なので、今の内からぼちぼち句を拾って書き始めている。
毎度の事であるが、夜更けに麦酒を飲みながら、
ミミズがのたくったかのごとき字が書いてある短冊を、仕分けている。
参加者の名誉の為に補足すれば、飲んでいるから手元が覚束ないだけで、
それでも、のたくり具合が一等尋常でないのが、私の短冊である。
今回は、古風な銭湯へ行く、と言うだけの単純かつ濃密な内容にも拘らず、
初参加者の方、2名に来て頂いた。
銭湯の入浴料が360円で、其処へ行く片道電車の乗車券が430円である。
つまりは、860円かけて銭湯へ入りに行った事になる。
860円の価値を道中に見出せたか否かは、私の知る由は無いが、
上毛電鉄と言う路線は、非常に稀有なローカル線であった。
その点を羅列して述べよ。
と言われたら、述べられない事も無いが、麦酒の泡を減らす様な野暮はしたくないので、
止めておく。
兎も角、群馬県にも面白いローカル線が残っているのだ。
仕分け作業で、目に止まった、参加者の句を一つ発表して終わる。
・何も無い何も無いけど落ち着くね
俳句にも川柳にもなっていないけれど、良い。
おそらく、大胡駅の駅舎を出た風景か、銭湯までの道のりか。
飾り気が無いけれど、人情に厚くてどこかほっとする、大胡の銭湯を連想させる。
こう言う句は、侘び住まいで独り背中を丸めて飲んでいる時に見ると、染みてくる。

686声 冬の西日の上毛電鉄

2009年11月16日

1時間に2本。
と言う事を確認してから、切符を買った。
此処は中央前橋駅。
昨日の俳句ingで乗った、上州が誇るローカル線、「上毛電鉄」の始発駅である。
私は初めてこの上毛電鉄に乗車したのだが、
様々な点で新鮮な驚きを得た。
まず、改札で切符を切る事。
JRの様な自動改札は勿論無く、改札で切る切符は、御馴染の駅名と日付入りの判子ではなく、
「パチン」と先の丸い鉄の鋏で切るのだ。
私は、幼少の頃に、車掌さんセットか何かの玩具で見て以来である。
本物のあの鉄のペンチの様な器具で、切符を切られたのは初めてである。
そして、上毛電鉄はサイクルトレインを実施しているから、
電車内で自転車を押した乗客が、チラホラ見受けられる。
常連と思しき乗客が駅構内に、スーッと自転車で入って来て、
券売機の前でヒョイと降りて切符を買い、自転車を押しながら、列車に乗車して行く。
JRを主に利用している私の目には、これが非常に珍しく映る。
熟柿が実る田舎駅。
西日に照らされる列車内には、様々な人々。
自転車を押してる外国人。
アイスを食べてる女子高生。
俳句を書いてるワルノリ俳句ing御一行。
我々を包む車内の空気は、ゆったりかつまったりとしている。

685声 菊正宗とカツ丼

2009年11月15日

週末の雨天から一転、本日は穏やかな冬晴れ。
これから第11回ワルノリ俳句ingに出掛けるところだが、
まさに、ハイキング日和の気候である。
行程は、中央前橋駅から大胡駅まで、上信電鉄に乗って行き、
大胡駅から銭湯「東湯」まで歩いて行って湯に入って帰って来る。
と言う、今回は単純明快なものなのだ。
当然私などは、何処かの赤提灯で引っかかるのだがら、
家を出掛ける前に、本日の更新分を書いてしまおうと言う魂胆で書いている。
冬は、一杯ひっかけてからが、眠くなって仕様がない。
昨日もそうだった。
千葉県は市川市の、京成八幡駅。
京成電鉄の上野駅から、快速で4,5駅も行けば着く、東京都に程近い都市。
小岩から江戸川を越えた先。
と言った方が分かりやすいかもしれない。
昨日は其処へ行って来た。
勿論、目当ての場所があっての事。
其処は、駅のすぐ目の前にある、「大黒屋」と言う和食の店。
永井荷風が、最晩年に行きつけだった店で、
亡くなる前日まで食べていたと言う、店なのだ。
その店には、現在「荷風セット」なるメニューがあると言う事で、
早速食べに行って来たと言う次第なのである。
カツ丼に上新香と日本酒一合。
これが、永井荷風御用達である、荷風セットの内容。
店に入り、荷風セットを注文し、カツ丼をつまみに一献。
しばし、耽美的な時が流れる。
ぼんやりと、虚空を見つめていると、女将さんが声を掛けてくれた。
「先生はいつも、この角の席に座って、食べてらしたんですよ」
そう、私は偶然ながら、永井荷風の定位置に腰掛けて居たのである。
菊正宗の熱燗で赤身の差した顔。
ぽわーんとして、「お雪…」などと呟きつつ、店を辞す。
「荷風の散歩道」なるタペストリーが掛かった、界隈の商店街を歩いてから、
駅へと戻った。
商店街の古本屋を覗くと、やはり荷風作品が並べてあり、
断腸亭日乗などが埃を被ったまま、店頭に並んでた。

684声 ゼロの妻とヴィヨンの焦点

2009年11月14日

公開初日。
と言うのは、映画の事。
その映画とは、「ゼロの焦点」。
今日、早速観に行って来た。
ゼロの焦点とは、言わずもがな、松本清張原作。
今年は生誕百年と言う事もあって、
映画か含め、様々な関連作品が世に出ている。
太宰治もそうだが、同級生の両者、その生い立ちや、
経歴、作品を見ても対照的で非常に面白い。
ゼロの焦点の主演は、女優広末涼子。
少し前に公開された、
太宰治原作である「ヴィヨンの妻」にも出演していた、
広末涼子である。
私などは、アイドル時代の広末涼子のイメージが強いので、
この2作品での演技ぶりには、いささか驚いてしまった。
勿論、その名演に対してである。
2作の役どころを比較して観ると、より実感する。
観に行った、映画館も有楽町だった為か、
群馬で観る時とは、ちと趣が違った。
最後のシーンで、日比谷など界隈の映像が映るのである。
しかし、東京の人ってのはせっかち。
エンドロールが流れるや否や、席を立つ人が多数ある。
そして、映画批評には辛口な人が多いようだ。

683声 蛇口の水

2009年11月13日

唐突だが、水ではなかろうかと、密かに思っている。
健康のキーパーソンが、である。
先日の事、我家の水も随分と不味くなったな、と思った。
私は高崎市、厳密に言えば旧群馬町住まいだが、当然ながら水道水を飲んでいる。
首都圏でペットボトル生活をしている友人に言うと、驚く。
不味くなったと思ったのは、コップに汲んだ水道水を口に含んだ瞬間、
カルキ臭と言うか、何らかの薬品臭が鼻をついた。
以前にも、極稀にこう言う時があったのだが、浄水場から検査供給されて来る水なので、
自分の住んでいる地方都市は、首都圏よりも水環境が良いと言う固定観念も手伝って、
飲み水には盲目的と言える程、生活の中で注意を払っていない。
首都圏生活者は、集合住宅に住んでいる人が多いと言う事もあろうが、
水環境の理由から、その大半の人がペットボトルを飲料水としている。
水に対して、注意警戒を払うばかりに、そうならざるを得ないのだろが、
ペットボトルの殺菌された新鮮な水の、どこに危険な事があろうか問う。
これもいささか危険だと思う。
確かに、それ自体は危険な事は無く、むしろ安全であるが、
それを当たり前の様に飲む事によって、生ずる弊害が有るのでは。
と、素人考えではあるが、そう思う。
ペットボトルの水は、殺菌された限りなく無菌の水であるが、それを常用して飲むが余り、
菌に対しての抵抗力が無くなるのではないだろうか。
だから、お腹が弱くなったり、風邪を引きやすくなったりする。
つまりは、環境適応能力に乏しい体質になってしまう事が、この所で言う危険にあたる。
だからと言って、水道水も残留塩素なんてのがあって、
人体に無害では無いと言われているので、一概に水道水を常用すれば良いとも言えない。
世界の長寿地域は、硬水が湧いていて水環境が良い場所である、と言う統計も出ており、
やはり健康と水との関係は密接と言える。
そう言えば、夜店で釣って来た金魚を、その日に水道水を出してバケツに入れておいたら、
翌朝、横たわって浮いていた事がある。

682声 目で食べる

2009年11月12日

11月も中旬。
ともなるとチラホラ、どころでは無く、
巷は本格的に年の瀬の様相を呈してくる。
年賀状の販売、お歳暮の発送、おせちの予約。
小売店の年末商戦が勃発し、いよいよ激化してくる頃。
それに輪をかけて、クリスマスなんてのもあるから、
いよいよ戦況は泥沼化してくる模様。
先日、一寸した仕事で、ケーキの写真撮影をした。
撮ったケーキは12種類。
ロールケーキ有り、ショートケーキ有り、クリスマスケーキ有り。
私はとりわけ甘い物が好きでも無いのだが、
生クリームがたっぷり塗られた白く綺麗なケーキを目の前にすると、
思わず唾を飲む。
やはり、菓子と言えど一つの料理。
綺麗に細工が施され、旬の彩で飾られたケーキなどは、
目で食べさせる効果が多分にあるようだ。
それを実感したのは、随分前にも一度経験がある。
その時もケーキだった。
と或る洋菓子店の厨房。
パティシエの方と話をしていて、ロールケーキかなんかの切れ端を頂いた事がある。
ケーキを作る時、結構、スポンジの切れ端が出るのだ。
生クリームが付いたスポンジの切れ端は、形こそグチャグチャだったが、
味は美味しかった。
後日、その洋菓子店が卸している喫茶店で、
珈琲とそのロールケーキを食べる機会があったのだが、
味はやはり、切れ端の比では無く美味しかった、と記憶している。
撮影が終わり店を辞す時、お店の方にケーキを数種、御土産で頂いた。
チョコのケーキを一つ食べ、味は非常に美味しいのだが、
甘党でも無い私は一つが限界。
残りを全て、同行者に渡してしまった。
私の場合、ケーキは目で食べる事に限る様である。

681声 雨の交番

2009年11月11日

交番前の掲示板。
降りしきる雨の中。
傘もささずに警察官。
昨日捕まった指名手配犯のポスター。
剥がして丸めていた。

680声 ペンキ富嶽の一景

2009年11月10日

玄関を開けたら、雨。
夜半にしっとりと小雨。
踵を返し、マラソンの練習は取り止め。
冷蔵庫を開けたら、缶麦酒。
練習は止めたが、これは雨天決行。
走らずに、風呂に入ってからまた一杯。
いやいや、雨天も、結構結構。
椅子の上に胡坐をかいて、ぽつねんと眺めている。
部屋の隅にかけてある、富士山のペンキ絵をじっと。
風呂屋のペンキ絵ってのは、ベタもベタ。
快晴の空。
稜線の斜度がきつい富士山。
それを湖面に映す、川口湖畔。
ドリフのコント的であり、水戸黄門の時代劇的であると言える。
このベタに、何故か日本人は魅かれる様だ。
ベタの力強さに、安心さえ覚える。

679声 旋回して近づく

2009年11月09日

「籍を入れました」
なんて言うメールが、昨晩、携帯電話に届いた。
差出人は同級生。
最近多い。
籍を入れたり、式を挙げたり、それらを予定中だったり。
結婚という軸に対し、グルグルと旋回して近づいているとする。
20代も後半戦。
人生の中で、その一番近づく時期ってのが、彼らに来たのであろう。
一方私は、先日行われた座談会、
「ほのじ通信1周年記念特別企画〜ひとり者のしあわせ基準〜」
なんてのに参加している。
先日、発売になったのだが、私は未だ読んでないのだ。
ひとり者である事に、しあわせ基準を見出している様が、記載されている事と思う。
「ついに結婚か、そうかそうか、いや、おめでとう」
「あぁ、ありがとう。ところで、オマエの方はどうなの」
と聞かれて、このしあわせ基準。
まさかねぇ、述べる訳には、行きますまい。
路地裏の奥まった居酒屋の更に奥まった席で、背中を丸めながら語る話である。
そう言った意味で、恥ずかしながら、貴重な座談集なのではあるまいか。
「いやぁ、いろいろと有るようで無いような、それがまぁ、ははは、さっ行きましょか」

678声 猫と夜会う

2009年11月08日

「おっ、やってるね。いやしかし、何だいその足取りは」
「うっさい」
「お前さんは大体、運動不足なんだよ、昨日はどうしたんだい」
「昨晩は飲んでたから、走って無い」
「ほら見ろ。だからお前さんは駄目だってんだよ、しっかりやんなよ」
「昨日の分まで走りゃ良いんだろ、まったく」
「あらら、未だ2周目だってぇのに、もう息があがってるじゃないか」
「今日は、たまたま、調子が、悪いんだ、よ」
「ほらほら、腕が振れてないよ」
「そうやって、四六時中地べたに這いつくばってるあんた等に、
マラソンの大変さが分かってたまるか」
「随分と言ってくれるじゃないか。あたし等だってねぇ、夜ぴぃて走る事があるんだよ」
「へぇーそんな姿、見た事無いね。日向ぼっこのし過ぎで、夢でもみたんじゃないの」
「そりゃ、御前さんは見た事無いに決まってるよ。昔っから、
猫は人間に死に目を見せない為に、御前さん等が知らない様な、
そりゃあ遠い所まで走って行くんだからね」
週に何度か、自宅裏の田圃を夜、走っている。
その時に、出くわすのが、どこかの飼い猫なのだろうが、
鼻筋の綺麗に通った賢そうな白猫。
闇夜に映える白毛は、そこはかとなく気品が漂っている。
首を落として、上目使いに、横を走り去って行く私を覗き見ている様が、
いかにも物申したそうなのである。
おそらく、雌猫だと推察するが、いつも私と目が合う。
いつも、と言う事は、私が走り始めてから、夜に良く出くわすのだ。
目が合った瞬間、お互いに「ふん」と言う、種族を超えた意地の張り合いをしている。
今夜も私は猫と会う。

677声 Jazzと餃子の街は更け

2009年11月07日

先週に引き続き、今週も両毛線で栃木県。
栃木駅から東武線に乗り換え、今日の終着駅は東武宇都宮駅。
栃木駅の列車待ちで、2週続けて、同じ立ち食いうどん屋で、
同じ天ぷらうどんを食ってしまった。
栃木県も宇都宮まで来ると、流石に大都市と言った様相。
駅前に林立する商業ビルや人通りの多い商店街など、商都の賑わいがある。
徒歩で行ったりバスに乗ったりして、市内の銭湯を訪ね歩く。
しかし、今回は望んでいた成果と言うか、結果を得るに至らなかった。
巡り合わせの妙。
たまにはこう言う日もある。
そう言う日には、朝から何か予感めいたものがある。
その予感を実感した所で、早々と次回再訪への期待を託し、繁華街へ行く。
丁度今日、宇都宮市街地では「宇都宮餃子祭り」ってなイベントが開催されていた。
市内の会場には、餃子の名店が特設テントで露店を出しており、
一皿100円で販売されている。
中には有名店も有り、そう言う店にはやはり行列が出来ている。
私も早速、往来の椅子に腰掛け、買い集めた餃子と麦酒で一杯。
今日の芳しからぬ結果を埋める様に、麦酒の紙コップを重ねてゆく。
宇都宮餃子、中でも「みんみん」と言う店の物が美味かった。
やがて赤提灯が灯る頃になると、祭り酣を迎え、冷たい夜風が吹いて来た。
最終的に私、オリオン通りの焼鳥屋のカウンターに流れ着いており、
やや覚束つかぬ足取りで、改札をくぐる。

676声 良い餡が浮かばない

2009年11月06日

コンビニなどで、菓子パンを買う事がある。
今日買ったのは、100円位のあんぱん。
この手の菓子パンも、粗悪な物になると、
餡に到達するまで、二口も三口もかかる物がある。
つまりは、餡がパンの中央部に少ししか入っていない為なのだ。
あんぱんをを食べた時は、やはり一口目で餡に到達するべきである。
中々、主役の餡が出て来ず、味気無いパンだけ味わっているのは、空しい。
やっと餡が出て来たって、餡の部分を食べて終えば、また味気無い空しさと御対面。
だから、あんぱんは中身の餡が、外側一杯に均等に入っている物を、極力選んで買う。
こんなみみっちくて瑣末な内容で更新すると、
「アイツもとうとう、ヤキがまわって来た」
「アイツの頭の創造の泉は、枯渇寸前だよ」
何処かのこきたないおでん屋のカウンターの隅で、
噂する声が聞こえて来るようである。
しかし、その噂は的を得ている。
今日買ったあんぱんの如く、餡がちょこっとしか入っていないのが、私の頭。
それを半分に割って、餡の所ばかり食べてしまうから、
後に残るのは味気無いパン生地ばかり。
如何なのかしら、今日のパン生地の味は。

675声 寝姿遺伝論

2009年11月05日

私は夢を見ない人間だ。
と言うのは、別にリアリストである事の比喩では無く、
寝ている時に夢を見ないのである。
一年の間で全く見ない訳ではないのだが、人に話を聞くと、
私の場合は夢を観る回数が極端に少ないらしい。
見ているのだけど、朝起きて覚えていないのか。
それも、同じ事である。
夢を見ないのに、寝言は人一倍言っているらしい。
この「らしい」と言うのも、当然、私の場合は夢と寝言が連動していないので、
意味不明な寝言のみを言っている事になる。
女性と寝ている時に、別の女性の名を呼んでしまった。
など、少しは色っぽいエピソードが欲しいのだが、現実はそうもうまくいかない。
大抵は朝起きて、私の寝言の当事者かつ被害者に、「うなされてた」と言われる。
別にうなされている実感も、原因も見当たらないのだが、
兎も角、夜毎様々なうなされ方をしている。
実家では良く親に、「寝ながら謝ってた」と言われた事がある。
「すみません、あー、すみません」
と謝罪しているらしい。
外で寝る時に多いのが、断末魔の叫び系統の声である。
「あぁ〜うぅ〜ぐぅぁ〜」
針の筵に寝ているかの如く、呻いているらしい。
さて、原因は何だろな。
と考えるに、枕が合わない、ストレス、呪い。
等々挙げられるが、私自身、一番有力な線が、遺伝ではなかろうかと考えている。
私の親父が、これまた寝言を良く言うのである。
寝言だけでなく、寝ぞうも恐ろしく悪い。
例えば、深夜に「うぅ〜」と呻きながら、足をバタバタやっている。
エクソシスト状態なのだ。
寝ぞうも良く寝言を言わない母と、寝ぞうが悪く寝言を言う父。
足して二で割って、私には寝言が残った。
それでも、寝ぞうが悪いよりはマシだと思っている。

674声 立ち食いの美学

2009年11月04日

空気感が既に冬である。
冬は空気が澄んでいると言うが、成程、山間に沈む夕日の残照は宵闇の深い青に溶け、
彼方に見える街の灯は、煌びやかな宝石の如くに光っている。
山は四季を映す。
一気に寒くなったものだから、テレビや雑誌なんかも、
慌てて「鍋特集」なんて企画をこぞってやっている。
確かに鍋も良いが、今時期はうどんも良い。
「うどん」と言っても、旬はやはり、駅の立ち食いうどんであろう。
寒風吹くホームで啜る、かけうどん。
少しでも温まろうと、七味なんか多めにかけたりして、ズーズー言いながら手繰り込む。
電車の音やら雑踏の音やら、駅のホームは何かと慌ただしいので、
うどんがズーズー言ってようが、鼻がズーズー言ってようが、誰も気に止めないのである。
ズーッと汁を飲んで、コップの水をツーッと飲み干す。
すると、丁度乗る電車が入線して来る。
ってのが、立ち食いの美学、玄人の技。
いささか貧乏臭い玄人だが、これが素人となると貧乏どころか、けしからん。
かく言う私も、以前、電車待ちの時間が無いにも拘らず、立ち食いうどんを食べていた。
慌てに慌てて、「ズーズーッ、アチアチ、ズーズーッ、アチアチ」と、
熱くて食べる速度が鈍くなってしまう。
そうこうしている間に、電車が入線し、ドアが開く。
器の中には、うどんが未だ半分残っている。
うどんを取るか電車を取るか。
どちらにせよ、立ち食いうどん界における、けしからん結末となる。