日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

722声 煤払いとツケ払い

2009年12月22日

早すぎかと思い、時計の針を見ると、あれ、そうでも無い。
私の目が覚めるのが早いのでは無く、お天道様が登って来るのが遅いのである。
今日は冬至。
一年の間で最も、昼が短く夜が長くなる日。
だから、日の出が遅いのだ。
冬至の日は、各地でゆず湯。
と言うテレビニュースを見ていた、正午。
私は、下仁田町の路地裏に在る、鄙びた大衆食堂のL字カウンターに腰掛けていた。
年の瀬、客入りは多い。
どうやら皆、店の大将やおばちゃんに、年末の挨拶がてらに顔を出しているようである。
入って来たのは、白いつなぎを着たおやっさん。
ポケットから徐に、一万円札を二枚出して、おばちゃんに渡す。
「はい、ありがとうございます、あれ、でも少し多いよ」
「いや、いーからいーから、それでまた食わしてくんな」
「あー、いや、すいませんねぇ」
「うん、じゃあ、タンメンと餃子ね」
とのやり取りから推察するに、「ツケ」ではなかろうか。
常連客のつなぎのおやっさんは、その都度の飲食代を現金で清算せずにツケておき、
盆と正月に払っていると言う線が強いだろう。
いくら顔馴染だとは言え、ツケで食べられる店と言うのは、現代においては稀有である。
貴重な年末の光景と、温かな心のやり取りを見れた。
と、胸内で感心しながら、湯のみの緑茶を啜る。
テレビのニュースが丁度、高崎白衣観音で煤払いが行われたと言う、
郷土のニュースを報じた。
ツケ払いの済んだおやっさんは、油の染み込んだ手で頬杖を付いて、テレビを見ていた。

721声 それぞれの団欒

2009年12月21日

先日。
街の酒処。
注文した瓶麦酒が、もう、正月仕様だった。
「寿」と書かれたラベルの筆金文字が、輝いている。
年末である。
と感じるのは、テレビ。
番組構成が特集形式になっており、
普段、1時間の番組が、年末スペシャルだとかで、
2、3時間と放送時間が延長されている。
「テレビは1日2時間まで」
なんて、学校の先生に釘を刺されていた時分を懐かしく思う。
学校などは、今週で冬休みの所も多い筈。
炬燵で煎餅でも齧りながら、ついでにテレビにも齧りついている。
そんな家族団欒の光景を今、見られるのだろうかと、いささか不安に思う。
不安の根源は、こうやって見ている、インターネットの普及にある。
テレビの場合は、未だ良かった。
炬燵に入りながら、家族で一つの番組を見られる。
本当はバラエティ番組が見たいけれども、親父の意を汲んで、
ニュース番組を我慢して見ている。
と言う経験も、忍耐や協調性と言う人間形成に対して、
微弱ではあるが役に立っているのかもしれない。
しかし今、家族は、テレビを見ている時間より、それぞれの部屋のパソコンで、
インターネットを見ている時間の方が長いのではなかろうか。
炬燵に入りながら、家族で一つのパソコンに向かう。
なんて言う光景は、成立しないだろうから。
「インターネットは1日2時間まで」
なんて、現代の学校の先生は生徒を諭しているのだろうか。
そう言う先生たちも、テレビゲーム世代だったりするので、
なんだか自己矛盾している様に思う。
一家団欒の形も、変わって行く。

720声 真冬の駅のベンチ

2009年12月20日

年々、急速に発展する高崎駅。
訪れる度、その進化の速度に驚く。
まるで植物の様に、枝を伸ばして実を付けている。
新幹線が、都会の養分を運んで来るからだろうか。
街も人も、時と共に流れる。
面影を留めず、変わって行く。
黄昏時間。
駅西口のデッキに出ると、
ベンチに独り。
暗い眼差しをした青年が、
ベンチに独り。
真冬の風。
氷点下の肌触りが、
どこか、
懐かしい感覚。
鼻水を啜りながら、
どこか、
懐かしい感覚。
ポケットに手を突っ込んで、
歩く。

719声 心持と鍋

2009年12月19日

昨日の夕方、前橋や高崎市内で風花を見た。
上空には、赤城山や榛名山を跨いで来た、厚い雪雲が垂れこめている。
暗く煙っていて、山並みが見通せない。
おそらく、吹雪いているのだろう。
いよいよ、雪の季節がやって来た。
この時期に恋しくなるのが、鍋料理。
すき焼き、ちゃんこ、水炊き、しゃぶしゃぶ、寄せ鍋。
鍋料理は多彩である。
その多彩な鍋料理に、近年、輪を掛ける様に新種が登場している。
カレー鍋、トマト鍋、豆乳鍋にコラーゲン鍋。
それらに共通するのは、「ヘルシー」と言う惹句。
鍋一つとっ捕まえて、健康に影響するかどうかを、吟味してもなぁ。
などと思っても、近年の外食産業における集客の比重が「女性層」に在るとの事なので、
その層が飛び付かなくては、商売にならない。
だから、一寸したチェーン店の居酒屋などに行くと、メニューにおける鍋の頁、
「ヘルシー鍋特集」などと銘打たれている。
そして、すき焼きや、水炊き、旬の鱈などが入っている海鮮鍋などは、
升席に追いやられているか、番付にも登場していない。
いささか残念に思いつつも、しぶしぶ、コラーゲン鍋だかなんだか、
得体の知れぬ鍋を注文する。
これがまた、美味かったりするので、文句の言いようもない。
判然としない気持ちで、美味い美味いと平らげた。
鍋を食って判然としない。
で思い出したのだが、内田百?の随筆に一つ話があった。
百?先生が友人を歓待する際に、悪戯心で一つの鍋を思いついた。
それは、鍋の中に、馬の肉と鹿の肉を一緒に入れて、食べさせる言うもの。
こんな鍋を食べさせられた方も、味は美味いが、心持は判然としないだろう。
しかし、話のタネになる分、ヘルシーよりも得な気がする。

718声 病院でお泊り

2009年12月18日

のっけから気がかりな題名を付けて、驚かれた読者も居ると思う。
しかし、驚いたのは私なのである。
それを早く言えと言われる前に言っておくが、入院するのは私ではない。
私の友人なのである。
つい先程、電話を取ったら、憔悴した友人の声がそれを告げた。
彼は私と同級生なので、現在20代後半。
既婚で子供も居り、大きな会社に勤めている。
まさに、私とは一線を画す、立派な一家の大黒柱なのである。
病状のあらましは、どうやら肝臓を悪くしたらしい。
検査入院らしいのだが、肝臓っては自己主張の乏しい臓器なので、
入院期間は検査いかんで変わってくるとの事。
吐き気に腹痛、発熱に倦怠感。
とどめに軽い黄疸。
と波状攻撃で攻められては、誰だってまいってしまう。
因みに、原因は酒では無い。
それに畳みかける様に、家の事、会社の事が覆いかぶさってくる。
大きな会社の若手注目株であり、家族思いのお父さんである彼にとって、
この時期の病気と言うのは、さぞや切歯扼腕する事だろう。
社会生活上でおぼろげな存在である私は、非常におこがましいのだが、
一応同世代として、その気持は幾らか察する。
大丈夫。
例えば、サイコロ。
5だとか6だとか、彼はいつも大きな目を出して、皆の先をとっていたんだ。
ここへ来て、2だとか3あたりの小さい目が出たからと言って、心配する事はない。
本来が引きが強い、またすぐに大きな目を出しているはずである。
翻って、ここで鼻水を垂らしながら書いている私などがサイコロを振ると、
ほら、赤い点がひとつ。
いつもこれだ。

717声 なっちゃいない男

2009年12月17日

昨日、私が車上狙いの盗人から、財布の銭を盗られた間抜けな話を書いた。
そして、その盗みの才能を、堅気な仕事へ活かした方が得策ではなかろうかと言う旨を、
犯人宛てに忠告した。
数少ない読者の方、数人から気遣いのメールを頂いた。
ともあれ、近しい知人たちなので、わたしに直でメールが来る。
心配性の人たちが読めば、私はなんて危機感の欠如した人間なのだと言う事になる。
車上狙いの犯人をして、盗みの才能ある人物と言わしめているのだから、私も暢気だが、
実際に現場に直面し、そう感じた。
色川武大さんのエッセイに、こんな話がある。
小学4年生の色川少年は、或る日、駅の改札口近くでスリに遭ってしまう。
結局、犯行は未遂で終わったのだが、その鮮やかな手口に感心してしまうのである。
芝居に寄席に野球や相撲。
芸事の好きな少年は、一連のその犯行を、「個人芸」と見なす。
そして、引っ込み思案な自分には、「合ってるかもしれない」と思うのである。
その日から、スリの名人になるべく、国電の車内でスリの練習を始めてしまう。
まるで、忍術にあこがれる少年の様にである。
ひと月以上経ち、他人の洋服や手提げの中の財布の在処に、
大体の見当が付くまでになった。
さぁ、目当ての物まで20cm、手を伸ばせば、と言う所へ来て、手が出ない。
其処を睨み付けているばかりで、駄目なのである。
とうとう、自分には才能が無いと思って、(めでたく)諦めてしまう。
やろうったって、容易に出来る事ではない。
無論、絶対にやってはいけない、卑劣な犯罪である。
曰く付きながら、やはりそれが出来るのは才能なのだ。
何にせよ、一つの道を求道する事は、大変難しい。
そして、「いっぱし」になるのは、もっと難しい。
私など、これならばいっぱしと言える様な事が、一つも無い。
趣味の一つである楽器を見ても、エレキにアコースティックにベースギター、
おまけに三味線にまで手を出して、まるで節操が無い。
書き始めてから、もうじき丸2年が経とうかと言う、
この「鶴のひとこえ」だって、やはりいっぱしとは言えない。
まるでなっちゃいないんだ、まったく。

716声 犯人に告ぐ

2009年12月16日

「車上狙い」
と言うのか、こう言うのは。
車に戻って来たら、直感、車内が変化している機微に気付いた。
置いてある財布を見た瞬間、その変化を認識する事になった。
私の使っている財布は、二つ折りの財布なのだが、小銭入れの蓋が、
折り目からペロンと出ている。
人為的な仕業とは、明白。
手に取って調べて見ると、硬貨に札、金銭だけがそっくり抜き取られている。
いや、金銭だけでなく、札入れに入れてあった、
ビール券とハーゲンダッツの引換券もない。
カード類は手付かずだったので、一安心。
なんて暢気な事を言ってる場合では無く、車内を隅々まで検分してみたが、他は無傷。
随分と薄くなってしまった財布を手に、幾ら入っていたか記憶を探る。
おそらく、1万5、6千円だった。
私にとって、この金額は手痛い。
もっと昼飯に良い物を食べて、使ってしまえばよかったと、後の祭りを悔む。
その後、ATMへ行き、銀行カードを残高照会してみたが、これは大丈夫。
大丈夫なのだが、いい歳して少ない残高の預金残高を間の当たりにし、少々落ち込む。
近年は、スキミングだとか言う、カード情報だけを抜き取ってしまう、
邪悪な高等技術が横行しているので、未だ安心ならざる状況だ。
それにしても、鮮やかな手口である。
いや確かに、許されざる、憎むべき、外道な犯行なのだが、手口だけは綺麗だ。
カードの類には手を付けていないし、車内も荒らされた形跡が無い。
まるで、財布の現金だけ、マジックで消された様な感覚さえある。
犯人は土地勘のある、ベテランの盗人ではなかろうか。
私の財布には、このサイトの事が記してある名刺が入ってた。
札と一緒に盗んでいったかどうかは、幾つ入っていたかが判然としないので、
確認する術がないのだが、もしそうだったとした、犯人が見ているかも知れん。
犯人に告ぐ。
まさか、ビール飲みながらハーゲンダッツを食っているのではあるまいな。
財布から盗る時の、なみなみと酒が入ったお猪口を口へ運ぶ様な、
その繊細な機微の仕事は、才能である。
その才を、堅気な仕事へ活かした方が得策かと思う。
段抜かしで登る階段は、必ず躓く。
捕まる前に、今この瞬間から止めなさい。

715声 故郷の山と季節の歌

2009年12月15日

「この時期は毎年うんざりしてますよ、流石にもう」
鏡越しに苦笑いを浮かべているのは、行きつけの床屋の主人である。
頭上で軽快に動いている鋏のリズムを乱さぬ様、私も相槌を打つ。
主人のうんざりの種は、店内に響いている有線放送である。
毎年12月に入ってからと言うもの、有線放送ではクリスマスソングを、
「これでもか」と言った具合に、流しているらしい。
リスナーからの多大なリクエストが、その状況を作っているのだが、
商売で朝から晩まで聞かせれる身としては、いささか身に堪えると嘆いている。
ボディブローの如く、じわりじわりと身の内に浸透。
寝る前の静かな寝床の中で、クリスマスソングの残響が耳の奥に残っているらしい。
「音楽は螺旋状に進化する」
と、有名なロッカーは言っていた。
しかし、ことクリスマスソングに関しては、
螺旋が途中で切れてしまったのではないかと危惧させる程、進化が遅く感じる。
それは、何年にも亘り、同じクリスマスソングが「定番」として盤踞しているからである。
実際私も、物心ついた時分から耳にしているクリスマスソングは、
現在でも第一線で活躍している。
ともあれ、現在、私の部屋に在るテレビには、年末恒例の音楽特集番組が映っている。
極彩色なライブステージの上で、若い娘が飛び跳ねながら、
どっかで聞いた様なメロディーの曲を、素っ頓狂な声で歌っている。
茫然としてその映像を眺めていると、
あの使い古されてマンネリ化したクリスマスソングが、懐かしい心持になる。
故郷の山ではないが、知っている歌が音楽業界に盤踞している事で安心感を得られる。
やはり、季節の歌は揺ぎ無い曲であって欲しい。
床屋の主人には申し訳ないけれど。

714声 流れのままに

2009年12月14日

浅瀬で遊んでいたのだが、川の深みに足を取られ、急流に飲み込まれる。
流れのままに流されて、ふと目を覚ますと、目覚まし時計の電子音。
次の瞬間、切迫した喉の渇きと、痛烈な頭痛に襲われ、
寝床の中で腹の底から呻いている。
その時々の状況、体調にもよるが、川遊びの様に、酒席でも油断すると足を取られる。
そして今朝の様に、二日酔いを甘んじて受ける。
それは或る種、享楽の代償の様でもある。
朝起きて、午前中は使い物にならない。
体が、である。
水だけを飲んで大人しくしていると、午後には大分、楽になってくる。
体調と精神と言うのは、善と悪の様に表裏一体になっていて、
体調が回復に向かうと、応じて精神状態も健全になってくる。
先程まで、精神を蝕んでいた、悔恨や自己嫌悪の成分が、
いつもの楽観的で陽気な成分に中和されてゆく。
日が沈む頃になると、「ぐぅ」と、腹の調子も整い、
けろりとして、今日初めての食事を平らげている。
風呂に浸かりながら考えてみると、昨晩、どうやって風呂に入ったかが、
模糊としていて思い出せない。
思い出せないだけで、形跡から見るに、キチンと風呂には入っている。
アルコールの過剰摂取により、一時的に記憶装置の機能に障害が発生した。
と、飲み過ぎ男の自己検査結果が言う。
風呂から上がり、冷蔵庫から缶麦酒を手に取る。
しばらく缶を眺め、川の浅瀬と自らに言い聞かし、プルタブに爪を掛ける。

713声 人生の水溜り

2009年12月13日

今日は日曜日。
穏やかな昼下がり。
窓から見える電線には、鳩が一匹。
師走も半ばに差し掛かり、巷では忘年会も後半戦であろう。
昨今、不景気の折、温泉地へ出掛けての忘年会は随分と減った。
なんて話を頻繁に聞く。
また、温泉旅館でやっても、大半の人が飲まずに日帰りで帰ってきてしまうそうだ。
これはどちらかと言うと、景気は関係なく、人の付き合い方が問題だろう。
「協調性が無い」
と言うのは、社会人としての新参者である若年層が、十把一絡げに言われる批評である。
先の忘年会を見ても、まず若者は参加しない。
そして、参加しても二次会に来ない。
個人差はあるが、飲まない。
細かい箇所に話が及ぶと、乾杯からビールでは無く、好みのカクテル類を注文する。
料理に好き嫌い、選り好みが極度にある。
そして、話を合わせない、もしくは話さない。
これは、今に始まった事ではなく、いつの時代もそうではなかったかと思う。
50年や100年で、社会での若者の在り方、つまりは人生の本流は変わらないと思うのだ。
変わったとすれば、それは社会の方である。
時々の社会が、人生の本流に様々な支流を作って行く。
ここで、電線に止まっていた鳩の下りを効かせて、政治批判をするつもりは毛頭ない。
もとい、わたしにそんな見識はない。
ただ、鳩が一匹、電線に止まっていたと言うだけだ。
北風に煽られつつも、首を竦めて必死にしがみ付いている。
クレインダンスの忘年会などは、赤提灯を2、3軒梯子して終わりである。
本流や支流からも外れて、どっかの水溜りにはまっている様な気がする。

712声 或る地方都市の花柳界

2009年12月12日

宿酔で寝そべっている、前橋中心市街地。
ネオンの消えた昼間は、どこか退廃的である。
夜に出会った相手と、昼間の街で会うような、気恥ずかしさ。
それは、街並みも同じ事。
私は街中の往来を歩く。
人見知りしながら、歩いて行く。
千代田町の入り組んだ路地。
路の両側には、肩を寄せ合って並ぶスナック群。
その一角に在る楽器店を、やっと見つけた。
「きくや楽器店」
看板で名前を確認して、入口の硝子戸を開ける。
こじんまりとした店内には、修理途中だろうか、
皮を剥がされた三味線が幾本も並んでいる。
奥のたたきに座っているご主人に訪ね、三味線の糸を何本か見繕ってもらう。
勘定を済ませて、好奇心で、聞いてみた。
「此処のお店は、もう随分と長いのですか」
「そうですねぇ、もう70年はやってますね」
「70年ですか、そうですか、それは立派ですね」
「ありがとうございます、でも私の代で終わりでしょうね、はい」
散らかっている空想の断片を集めて、昭和初期の前橋を想像してみる。
そこにはやはり、三味線の音が鳴っていた。
店を出ると、向いにスナック。
ママだろうか、つっかけ履きで、デッキブラシを持って、入口を念入りに掃除している。
「シャコッ、シャコッ」
一瞬、目を奪われたが、直ぐに取り返し、目が合う前に視線を外した。
路地に出来た水溜りが、夕焼け色に光っている。
そろそろ、土曜の夜が始まる気配。

711声 お江戸見るなら高崎田町

2009年12月11日

「ガチャン」
出会い頭の衝突。
衝突したのは、私の直ぐ前の車。
右折しようと見通しの悪い通りへ出た矢先、横っ腹から、直進車。
事故は、雨降りの黄昏時に起った。
今日は終日、冷たい雨が降り続いていた。
昨日も書いたが、この時期は非常に交通事故が多い。
今日の一件で、改めて実感した。
雨天の事故ってのは、余計に気が滅入るだろう。
そして今日は、高崎市街地の新名所、「高崎田町屋台通り」のオープン日。
通称、「中山道恋文横丁」と言う。
街ん中の「田町」と言う場所の一区画に、「屋台」を何店舗か配置され、
「横丁」風な空間になっている。
「ふらっと来て、カウンターで一杯」
と言う、群馬では余り例を見ない東京スタイルの晩酌を楽しめる。
そのオープン日が雨降りってのは、気の毒だが、熱燗で温まりながら瓶麦酒をチビリ。
カウンターから眺めているのは、道行く人、色とりどりの傘の色。
ってのも、一寸、オツかもしれない。
「お江戸見たけりゃ高崎田町」
その昔はそう謳われていた繁栄な街。
「お江戸見るなら高崎田町」
そう謳われる姿が見たけりゃ、ひらひら揺れる、屋台の暖簾をくぐってくりゃえ。

710声 平々凡々な日々

2009年12月10日

最近、事故を頻繁に見かける。
それに伴って、パトカー、救急車とも頻繁にすれ違う。
日に一回は必ずである。
師走も半ばに差し掛かろうかと言うこの時期、
師が走る速度も、徐々に上がってきた感がある。
街行く人は何処か上の空で、皆、一様にソワソワしている。
時折鳴り響くサイレンの音が、冬の乾いた空気を硬直させる。
歳末で駆け込み工事が多い道路は、大渋滞。
長い車列のドライバーたちは、血走り眼で奥歯を噛み締めている。
戦々恐々。
まさにそんな四字熟語が、誂え向きだ。
平々凡々。
この年末期間だけは、そんな日々が続く事を願う。
また、その様に努めようと思う。

709声 猫踊り

2009年12月09日

三味線を買った。
ネットオークションで、中古品を安く手に入れたので、
取り分け感動したと言う事も無かった。
先日の晩、宅配で届いたのだ。
一応ハードケースに入っていて、パチリと金具を外して、
ケースの蓋を開ける瞬間になると、漸く胸が高鳴って来た。
手に取ると案外軽く、ギターの様にくびれていないので、弾く時に座りが悪い。
撥が付いていないので、ギターのピックで代用した。
早速、糸巻きを締めて、音をチューニングと言うのか、つまりは合わせようと試みた。
本調子、二上がり、三下がり。
って言葉は知っているが、どうにも合わせ方が分からない。
闇雲に、我流で変速チューニングに合わせ、調子っぱずれな不協和音を奏でる。
やはり、どうにもひょうきんな音が出てしまうので、
暫く、糸巻きを締めたり緩めたりしていると、「べチン」。
二の糸が切れてしまった。
私は、ギターを弾いていても頻繁に弦を切る方なので、気にせず弾き続けた。
二味線となったその楽器は、さらに奇妙な調子の音を出す。
私がギターピックで、出鱈目に弾くリズムも相まって、
どこか此の世の物とは思えない音色が、部屋に鳴り響く。
その節に合わせて、近所の野良が、月明かりの下で猫踊りを踊る。

708声 吉報

2009年12月08日

今日、家へ帰ると、1通の封筒が届いていた。
差出人は銭湯のご主人。
察しは、直ぐに着いた。
現在、「群馬路地裏銭湯記」の書籍化を進めており、
県内の各銭湯のご主人へ確認をとっている。
その返事である。
その内容は、旨を快く了解して頂いており、
私の方は、ほっと胸を撫で下ろした。
ギャグを言っている場合で無く、その後の文面を読んで、
その一文を読んで、撫で下ろした胸に、小波が立った。
「1日でも永く続けられる様がんばっています」
嬉しかった。
先日、「嬉しくてねぇ、電話したのよ」と、書籍化の件で、
銭湯の女将さんに電話を頂いた。
その時も、本当に嬉しかった。
しかし、時に掲載を断られる事もある。
様々な事情がある。
その中に、どうしても譲れない事があるのだ。
心意気が垣間見れただけでも、嬉しい事ではないか。
私もやってみよう。
やらねばならない。

707声 マラソン狂想曲

2009年12月07日

「こんのヤロ」
「なんでオレが、こんな」
これは内なる私の声である。
昨日の日曜日、午前11時。
伊勢崎市華蔵寺公園脇の田圃道を、よろよろと走りながら、胸の奥で呟いていた。
満を持して臨んだ、第5回伊勢崎シティマラソン10km。
前日の雨から一転、雲一つ無い、澄み渡った快晴の冬空。
記録によると、「天候晴れ、気温11度、湿度75%」となる。
「パン」と言う発砲音と共に、羊の群れの如く、
固まりになって陸上トラックを走り出す参加者たち。
群れから逸れぬように、懸命に付いて行く私。
10kmの道のりは長い。
2、3kmまでは、気力体力共に温存されており、虎視眈々と早い順位を狙って行くが、
それを過ぎると後はもう惰性で走って行く。
もう順位も何も、ただ行き倒れないように、一定の動作を繰り返すゼンマイ式の、
人形ならぬ人間となって、ゴールを目指す。
途中、コース上に給水所が設置されている。
走行中、荒々しく紙コップを引っ掴んで、中の水を、氷もろとも口の中へ放り込み、
コース脇に紙コップを投げ捨てる。
その行為を客観視して、「玄人ランナー」になった様な心地好さを覚えるが、
後方から、次々に、真の玄人ランナーたちに抜かされて行く。
それが、白髪頭の鶏がらみたいなおじいちゃんだとか、メタボリックなおやっさんだとか、
友達としゃべりながら余裕で走る女子高生など。
顔面蒼白で冷汗を流しながら走っている私を、スイスイ抜き去って行く。
自尊心も身体もぼろぼろになり、道からの声援に答える気力も無くなって、
一緒に出ていた仲間等にも追い付けずに、虫の息でゴール。
棒になった足を引き摺って、近所の日帰り温泉へ直行。
温泉へ浸かっていると、先程コースで見かけた、花田監督と上武大学駅伝部の面々。
来年の1月2日は箱根を快走する彼らを、テレビで応援している事だろう。
風呂から上がって、食堂の隅っこ。
不本意なマラソン順位の私は、ビールに喉を鳴らす。
この美味さったらない。
その場合の順位は、今年で1、2位を争う。
そうそう、肝心な私のタイムは、1時間1分57秒。
順位は男子10km、年齢層を全て含めておよそ160人中の、130位。
130位はキリが良い順位で、「飛び賞」っちゅうのに選ばれ、
ぺヤングのカップ麺を3つ貰った。

706声 清々しい朝

2009年12月06日

朝が来て
夜の幕が開いたら
もう私等は
舞台へ行く時間
清々しい
朝が来た

705声 マラソン前夜の戒厳令

2009年12月05日

とうとう明日に迫った。
私の出場するマラソンが、である。
ここ最近練習を休んでいる事、慢性的に腰痛がある事、万年二日酔いな事。
様々な懸念材料があるが、万障を繰り合わせて明日、
スタートラインに立たねばならない。
一緒に出場する、私を含めた仲間数人の顔触れを思い出し、
自分の事は棚に上げて、何とか気を落ち着けるようとしている。
しかし、窓の向こうには、夜の雨がしとしと降っており、
落ち着いた気持ちが、更に深い場所へと落ちてしまうような心持である。
じゃあ、景気付けに一杯。
ってんでやると、流石にお天道様の逆鱗に触れそうである。
マラソンを前夜に控え、自ら戒厳令を敷く事にした。
さぁ、早めに蒲団をひっかぶって寝ちまおう。
明日は、午前中、マラソンを走った後、午後からは雪崩式に忘年会をやる。
健康なんだか、不健康なんだか、どうやら不健康の方に分があると思う。