日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

554声 路上のハイカラ女子

2009年07月07日

夕暮れ、勤め先からの帰り道。
十字路で信号に捉まり、車列で信号待ち。
何気無く、前歩の歩道に視線を移すと、歩道に徒然と立っている、
年頃20代前半と思われる、ハイカラな女子。
徐に腰を落とし、前の車に近付いたかと思うと、ニコリと白い歯をこぼして、
運転席のドライバーにペコリと会釈。
釣られて、ドライバーが助手席の窓を下げると、そのハイカラ女子、
何やらA5判程の小さなチラシを渡している。
そして、2言3言喋ったかと思うと、また例の如く、ニコリ、ペコリ。
やがて、信号も青に変わり、車列が進む。
そのハイカラ女子、当然、私にはチラシも一瞥すらも、くれない。

以下、私の勝手なる推測。
彼女は、最近、近所に出来た、新規美容室チェーン店の従業員。
この春、美容専門学校を出て、その美容室に勤めている、新米美容師。
その美容室の営業方針に則り、当番の時には、往来で一生懸命、
クーポン券付きのチラシを配っている。
とまぁ、こんな具合かと思う。

駅に近い市街地などでは、良く見掛ける光景だが、
信号待ちの車に配るってのが、自家用車保有台数の多い、群馬県らしい。
私は子供時分から床屋、俗に言う理容室で頭を刈っており、未だに、
美容室で調髪した経験が無い。
そんな調子なので、美容的髪型関係の話は分からないのだが、
往来でチラシを配る大変さは、一寸分かる。
浅き我人生を振り返ると、駅でイベントのチラシを配ったり、
店舗入口で商品を売ったりした経験が、少ないながらも思い出せる。

そのハイカラ女子の一心な、ニコリ、ペコリを思い出しつつ、
現在、ささやかな願を認めている。
本日は、七夕。
短冊に走る筆、「幸あれ」と記す。

553声 酔句ing

2009年07月06日

「第8回ワルノリ俳句ing」から一夜明け、昨夜とは打って変わって、
穏やかな夜を過ごしている。
明晩の「クレインダンス情報」に載せるべく、
机上に散乱している短冊を整理しているのだが、
自ら詠んだ句で、いささか不甲斐ない句も散見され、気が萎えている。

ところで当世では、デジタルカメラやケータイカメラの普及により、
場所選ばず、手軽に写真撮影できる。
それに伴って、一寸した宴席などで、記念写真やスナップを撮られる機会も、
自然と多くなる。
飲んでいる時に撮った、酔っ払いの自分が写っている写真を、
後日、素面でまじまじと眺める恥ずかしさと言ったら無い。

俳句も同じ。
今回の吟行に出掛け、陽の高い間は、眉間に皺寄せ、句を吟じている。
そして陽も傾き、なかなか句も出揃い、冷たい麦酒などで、気も解れてくると、
危うい。
眉間にあった皺が伸び、目尻はだらしなく下がり、表情が全体的に弛緩して来る。
良い心持で、なんだか秀句が浮かんだつもりになって、一瞬、尤もらしい顔に戻り、
句を認める。
「酔句」とでも言おうか、そう言う類の句は、決まって駄句。
翌日、素面で見返した時には、酔っていた時よりも更に、赤面させられる。

そう言えば、「ドランクモンキー酔拳」と言う映画。
主人公は修行の賜物で、「酔えば酔うほど強くなる」と言う、
奥義「酔拳」を体得するではないか。
ならば、私も修行を積んで、「酔えば酔うほど良くなる」と言う、
奥義「酔句」の体得を目指すべきではないのか。

と言うのは冗談で、私、至って真剣に俳句に臨む所存で御座います。
ワルノリもまた、御愛嬌。

552声 汽水域の料簡

2009年07月05日

日曜日の昼間である。
網戸越しに見る空は、薄曇り。
「夕方まで持つかしら」
などと、机に肩肘ついて、徒然と天候の事を気に掛けている。
「年寄り染みた野郎だ」
などと、思う事無かれ、今日は、「第8回ワルノリ俳句ing」の開催日。
天候と言うのも、多分に句作の影響になるのである。
この料簡、やはり、ちと、年寄り染みているのであろうか。

一重に「年寄り」ったって、近頃では様々な様相があると思う。
街外れのうらぶれた蕎麦屋で見掛ける客中に、思わず、「旦那」と呼びたくなる位の、
恰幅と物腰で、影も薄く淡々と、ざる蕎麦などを啜っている若者がいる。
はたまた、何処町に出来た、其処なる店が大繁盛していると聞きつけては、
根気良く行列に並び、何某の土産を買って来て、近所に配り歩いている快活な年配もいる。
寄席なんかを観に行っても、近頃は、随分年若な者と、随分年を食った者で、
客席が極端に二分されていたりする。

その様な世相に在って、40、50代の言わば、団塊ジュニア世代の身の振り方に、
興味が沸く。
若くも老けてもいない、汽水域の状態なのだから。
と、偉そうに述べている私も、鞄に短冊やらペンやら、手拭いやらを詰め込んで、
さて今から一つ、俳句と銭湯でもってんだから、自らの行く末が思いやられる。
淡水の河川から、気が付けば汽水域も通過せず、
海の深みに流れ着れついているのではなかろうか。

551声 財布の軽みと胃袋の重み 後編

2009年07月04日

昨日の続き

愛想の良い、快活なおばちゃんに食券番号を呼ばれ、取りに行く。
厨房から出てきたカレーは、洗面器大の皿に御飯をよそう、と言うより、
盛り固める、と著した方が適切な様相。
その上には、これでもかと、ルーが溢れて垂れ落ちんばかりにかけてあり、
もう、何だかやけくその意気込みを感じる。
途端に、先程までの食欲、気概は雲散霧消し、夕方の入道雲の如く、不安が湧いてくる。
兎も角、逃げる様にお盆を持って、カウンター席へ移動する。

「全部食えるのかい」
と書いた短冊が、擦れ違う人たちの目尻にぶら下がっている。
自問自答、それはこっちのセリフである。
節目がちにその場を通り過ぎ、カウンターテーブルの一等隅に座り、
完全に舞い上がりつつ、カレーライスの山を急いで崩して行く。
味わう余裕も無いと言う、お粗末。
もうこうなりゃ、こっちもやけくそである。
一心不乱にスプーンを往復させ、その佇まいたるや、
ゼンマイ仕掛けの人形と見紛うばかり。

最後の一口を口へ運び、かろうじて食べ切ったのだが、気力体力、共に摩耗して虚脱。
おまけに、私一人が水を被ったかの如く汗だく。
カウンターテーブルを見渡せば、先程、嘲笑の薄笑みを浮かべつつ、
私に一瞥をくれた、サラリーマン諸氏が、一人も居ない。
どうやら、戦いが長引きすぎた様である。
勝敗も見ずに去るとは、浅はか、笑止千万。
胃袋が膨らんだついでに、被害妄想も大いに膨らませつつ、食堂から辞す。
不細工に膨らんでいるであろう、自らの胃袋の重みを感じつつ、駐車場の車へ戻る。
結局、行きも帰りも足どりは重い。
結果、軽くなったのは財布だけであった。

550声 財布の軽みと胃袋の重み 前編

2009年07月03日

本日、時刻は正午過ぎ。
中々シュートの決まらぬサッカーの試合の如く、煮え切ら無い様相の梅雨空の下、
私は関越高速自動車道を、群馬方面へと北上していた。
大分腹も減ったので、パーキングエリアで飯でも食おうと、成り行きで寄ったのが、
寄居パーキングエリア。

車を停めて、財布を手に取ると、ズシッと重みを感じる。
重たい財布は景気が悪い。
札が入っている財布は、それが束になっていようと、左程重みは感じない。
砂利銭ばかり食い過ぎて、不細工に胃袋を膨らませている財布が重たいのである。
自らの金欠を思い、胃袋は軽くとも足取り重く、パーキングエリア店内自動ドアを跨ぐ。

食堂は混雑。
昼時なので、無理も無い。
食事券販売機の前、壁に貼ってあるメニュー見上げつつ、煩悶。
後に並ぶ輩の無言の圧力と、空腹が相まって、半ば理性を欠いた決断を下す。
腹が減っている時、すべからく、自らの胃袋の許容量を超えた注文をしてしまうのが、
常である。
意中のメニューボタンを押すと、食券の紙切れと、十円玉が二つ、
無愛想に釣銭入れに落ちて来た。
「カラン、カラン」と、なんだか情けなくなる様な、乾いた金属音が響く。
それでも、こちとら、砂利銭を工面して買った食券だ。
ってんで、大威張りの態度で、カウンターのおばちゃんに、
その「スーパージャンボカレー」と、誠に浅はかな商品名が書いてある食券を差し出した。

明日へ続く

549声 次なる目標へ展開

2009年07月02日

一年に少し足が出る期間を費やし、群馬県内の銭湯を回り、写真に収めて来た。
本サイトのコンテンツである、「とっておき探訪」に掲載する為である。
確認し得る県内の銭湯は全て掲載し終え、未だ数軒、
浴室内の写真等が撮れていない銭湯もあるのだが、一先ず完結。

PC画面上で撮り溜めた写真を眺めていると、それぞれ感慨深い名銭湯ばかり。
そして、この写真やら、路地裏銭湯記の顛末をどうにか活かせないものかと、思案に暮れている。
数少ない、このコンテンツの読者の声なども、少なからず、思案要因の一旦を担っている。
先日会った方(30代女性)などは、銭湯と言う場所には、
生まれてこの方行った事が無し、これからもおそらく行く事は無いと言う。
此処で言う「銭湯」とは、もちろん、スーパー銭湯で無く、路地裏の伝統銭湯だ。
そんな縁遠い場所だが、非常に興味が有って、本コンテンツを読んでいる言う。

銭湯の料金、システム、内部構造、人間模様。
それは全てが、自らの日常生活圏とは、一線を隠す、未知の世界。
しかし、日頃通勤で通い慣れた往来から、一歩路地裏へ入って見れば、
手拭いを首から下げた親父が洗面器を小脇に抱え、夕暮れの路地を歩いて行く。
そんな光景に出会えるのだ。
私たちの生活圏内などは、麦酒の泡の様なもので、その下には、未知の世界、
つまり黄金色に輝く麦酒本体がある。
本体を知らずに、麦酒の醍醐味は語れない。

なんだか、麦酒の文字を見たら、無性に虫が騒ぎだして来た。
尻切れ的結びだが、是にて失敬。
また明日。

548声 傘も差さずに

2009年07月01日

未だ、列島の上空で愚図っている梅雨前線。
その影響で、連日、どんよりと雨模様の天気が続く。
毎年の事ながら、なんだか此方の気分まで愚図ついて来る。
梅雨で愚図ついた思考回路が割り出した、今日のテーマは傘である。
外出時には傘が手放せないこの時期、街を傘さしで歩いて行く人も多い。
黒や赤、青に黄色と言った、色彩に富んだ傘が、往来に溢れている。
しかしそれは、どうも都市部のみに顕著な光景だと思う。
では、地方部、つまりは田舎で顕著な雨降り光景とは、どんなものか。
それは、傘も差さず、ずぶ濡れになって、
日暮れの街を自転車で走り行く中、高校生たちだ。
中にはビニール傘での片手走行や、キチンと合羽を着て走行している学生もいるが、
目に付くのは傘を差さずに、濡れながら帰る学生諸氏なのだ。
お洒落なニューヨーカーも、傘を差さないと言うが、彼等は制服。
お洒落もへったくれも無い。
「水も滴るなんとやら」ってのは、彼らにはいささか古風過ぎる例えである。
では、一体。
車の前を傘も差さずに、颯爽と自転車で走り抜けて行く、男子、女子。
私は、信号待ちの運転席から、そんな事を考えつつ、
ぼんやりと彼等を行方を眺めていた。
そこに、「青春」と言う言葉では、片付けたくない、自分が居た。
信号の点滅に慌てて、自転車で走って来た女子高生が、勢い良く、水溜りを撥ねた。

547声 夜風に夏笛

2009年06月30日

今宵、左程蒸し暑く感じない。
心地良い夜風が、時折、カーテンを揺らしているからだ。
私が手に持って眺めているのは、近所のお寺で開催される夏祭りのチラシである。
先日、行き付けの日帰り温泉で貰って来た。

チラシデザインから、紙面の祭り内容企画まで、片田舎特有の大らかさが出ており、
非常に好感が持てる。
例えば、「生ヒール」だとかの誤植は御愛嬌。
ステージ企画の項目には、こんな注意書き、
「※気分により内容が変更される場合があります。」
その時の気分次第と言う、「ゆるさ」が良いではないか。
そしてその横には、恒例の企画である、「ちびっ子コンテスト」の紹介。
また、キャッチコピーが良い。
「今年も品良くいつものイッキ飲み!イッキ食い!」
大人でも、品良く、イッキ飲みやイッキ食いするのは、至難の技である。
しかも、「いつもの」って箇所に、仄かな歴史の匂いを感じる。

さて、明日からは7月。
そろそろ、祭りに向けて、お囃子を練習する音が、田圃の向こうのお寺から、
夜風に乗って聞こえて来る筈である。
私は、南向きの窓から微かに聞こえる祭り囃子に耳を傾け、
ゆっくりと風呂に浸かるの時間が、今から楽しみだ。

夏祭り 夜店の人並み 誰探す

546声 ゾンビとダンス

2009年06月29日

25日の訃報以来、ラジオをひねれば、スリラーやらバッドやらビリー・ジーンなど、
マイケル・ジャクソンの楽曲がヘビーローテーションである。
なんだか横文字ばかりだが、キングオブポップの事を書くのだから仕様が無い。

私が物心ついた時にはもう、マイケル・ジャクソンは全米チャートの王座に君臨していた。
米国には、「MTV」なる音楽専門チャンネルがあるのだと、朧に知ったきっかけは、
かの有名なスリラーのミュージックビデオだったと記憶している。
画面に映る、圧倒的なSFXの効果に、子供ながら、戦慄を覚えた。
アジアの片隅、島国の片田舎、市井の鼻垂れ小僧にまで伝わっているのだから、
世界に及ぼした影響を思うと、途方も無い功績である。

きっと今頃は、世俗から解き放たれて、踊っているのだろうか。
あのスリラーの如く、ゾンビたちと踊った華麗なダンスを。

545声 泥酔方面スライド方式

2009年06月28日

カウンターで店主と話が弾み、ついつい焼酎のボトルを入れてしまう。
余り行く機会の無い店だと分かりつつも、こんな調子でボトルが増えて行く。

グラスで飲めば良い。
懐具合から鑑みて、一等低級酒を頼めば良い。
むしろ、其処まで飲まなくとも良い。
諸々、分かってるけど、そんなのどうだって良い。

ってな具合に、カウンターでの独り酒ではしばしば、
泥酔方面スライド方式に則って、痛飲してしまう事がある。
つい昨夜がそう。

以前から気になっていた、前橋市の外れにある小さな飲み屋。
夜半に、ふらりと暖簾をくぐって3時間。
つまりは、居心地が良かったのである。
その手の小さな飲み屋は、2次会、3次会帰りの馴染み客が多く、
既に赤ら顔の出来上がった状態で来る。
しかしながら、梯子酒の最後に、馴染みの店の冷と鮭茶漬けなんかで締めるってのは、
中々、粋人の飲み方だと、密かに憧れている。

ふらりと、暖簾をくぐって来たのは、足元も覚束ない近所の建築屋社長。
その、上機嫌な喋り方と店内に響く声量は、先程まで居たスナックでの余韻を残している。
「冷で良いですか」
ってのは、女将さん。
「あーそうね、赤城山かなんかで、あと、鮭茶漬けね」
このひょうきん者の社長、なかなか通な注文である。
「いやぁ、女将さんの顔見ないとね、なんだか寝付きが悪くて、ははは」
私はカウンターの端で、飲み切れもしない焼酎のボトルを見つめつつ、
粋で艶っぽい冗談に、酔って、笑った。

544声 一番蛙

2009年06月27日

逃げ場無き炎天下から逃れ。
書く気力無くとも書く。

本日は全国的に真夏日。
私の住んでいる高崎市では、34℃を観測。
夕方にならなければ、動きのとれぬ酷暑である。
季節の変わり目。
体が熱さに慣れていないので、倦怠感が甚だしい。

しかしながら、重たい体を引きずって、外へ出なければならない目的がある。
適格に言えば、目的地と言う事になる。
厳密に言えば、目的地で飲む麦酒と言う事になる。

サンダルを履いて庭へ出る。
時刻は午後7時30分。
裏の田圃の彼方に、今宵の一番星ならぬ、一番蛙の鳴き声を聞く。

543声 街中における情状酌量の余地

2009年06月26日

「兄ちゃん、こっち来て、うめて入りな」
70年配、人の良さ様なカマキリみたいに痩せた御爺さんに、声を掛けられた。
私が、湯船で中腰のまま、苦悶の表情を浮かべていたから、気を使ってくれたのだ。
「ありがとうございます」
私は、御爺さんと場所を換えてもらい、蛇口から水を出して湯をうめながら、体を沈める。
浴室には、カマキリ爺さんと私の二人だけ、一緒の湯船で壁に背を向け、
ジェット噴射に当たっている。

「余所者」に対し、親切に接する心は、素晴らしい。
銭湯の湯客には、対人関係に情状酌量の余地を残している人たちがいる。
灯りの消えた桐生本町通りを下りつつ、そんな事を思い巡らす。
往来沿い、一軒の古民家風の建物に薄明りを見た。
中には、和服の女性が3名。
その光景は、私の脳裏にある空想の桐生と、近い様な気がした。
車は一路、煌びやかな街へと走る。
情状酌量の余地が残っていない街は、あるいは、残っていなそうな街は、空しい。

542声 引退食堂に乾杯

2009年06月25日

以前にも書いた、前橋市街地の老舗食堂が、いよいよ暖簾を下ろすと言うので、
昨日、行って来た。
夕方、店先の暖簾をくぐると、店内は既に満席。
景気の良い声と煙草の煙が飽和して、店内の空気を淀ませている。

どうにかカウンター席の端に潜り込み、生ビールを前につまみを並べる。
ハムカツ180円、いかさし230円、焼肉260円。
ってな良心価格なので、私等の様な者でも、つまみをカウンターテーブル一杯に、
並べる事ができるのだ。
カウンターテーブルの上、皿の置き場所に難儀すると言うのは、非常に贅沢である。
店主に最後の挨拶を済ませ、老舗食堂の灯を惜しみつつ、店を後にした。

その後は、いささか寂しい平日の市街地を回遊。
流れ着いて、いつもながら、和服美人の焼く鰻を、にやけながら味わう。
これが、最近のクレインダンス内における流行。
と、言う事になる様だ。

540声 蛍句会

2009年06月23日

今宵は、田口町へ蛍狩りに出掛けた。
時刻は8時。
宵闇に包まれた田圃の畦道には、ズラリと蛍の明滅を観賞する人垣。
蛙の声を背で聞いて、一眼レフのファインダーを一心に覗いている人。
脇路にシートを敷いて、蛍を肴に一杯やっている一団。
暗闇の中で、メモ帳とペン片手に、必死で句をひねる私等。
様々な人たちが、往来していた。

肝心の蛍の方は、いささか風が強かった様で、控え目な飛翔具合。
比例して私の句も、随分と控え目であった。
書いた手前で、恥を忍びつつ、3つ4つ記す。

・祖父の背で寝ながら行く児蛍道

・児の腕に迷い蛍がふわり降り

・蛍火やはにかみながら若夫婦

・ほうたるや意中の相手に会えたかい

541声 パイプライン

2009年06月23日

宵に帰宅。
堪らずに、押入れから扇風機を引っ張り出す。
埃だらけのプロペラと、にらめっこ。

本日は、梅雨の中休み。
列島各地で真夏日を観測した模様である。
関東地方でも、特に群馬は酷暑地域であるから、本日も例外無く、カンカン照り。
蒸し風呂状態の部屋。
私は、大の字になって寝ている。
暑さにより、全身の筋神経が弛緩しているの為である。
温まった空気を、掻き回している扇風機。
それでも、幾分涼しく感じられるのは、スピーカーから流れてくる、
ザ・ベンチャーズのお陰であろう。

6月14日、インターネットのニュースで、
ザ・ベンチャーズのオリジナル・メンバーであった、ボブ・ボーグル氏の訃報を見つけた。
享年は75歳。
結成当初はリードギターだったが、後にベースに転向。
これは、後から調べて知った事である。

私は当然、所謂ベンチャーズ世代では無い。
しかし、ベンチャーズは好きだ。
どの様なきっかけで聞く様になったかは定かでは無いが、ベンチャーズベスト盤は、
部屋のCDラックで、最も取り出しやすい位置に置いてあった。
やがて、自らもギターを演奏する様になり、
ギターケースを持って街を歩く事も、しばしばあった。
そんな時、知り合いのおじさんに出会うと、「おっ、ベンチャーズか」と、必ず言われた。
いつしか、パイプラインや、ダイアモンドヘッドを演奏する様になり、
およそ2年前だったかは、伊勢崎市街の路地裏で演奏した。
浴衣で、しかも、アコースティックギターってんだから、無謀極まる演奏である。

世代でも何でも無い私の体内に、知らぬ間に浸透し、いつしか虜にしていた、
ベンチャーズサウンド。
今、この瞬間、私の部屋に響く、パイプライン。
「デンデケデケデケ」
モズライトギターの弦を弾く、瑞々しくも激しい、リヴァーブの効いたグリッサンド奏法。

アンプのスイッチを入れ、哀悼の1曲。
リヴァーブの目盛りは勿論、10。

539声 夜半の水

2009年06月22日

寝不足。
疲労感。

一刻も早く寝たい心持で、寝床に潜りこみ、荒っぽく目を閉じる。
閉じているのだけれど、中々、容易に寝付かれない。

昨夜の喧騒が残響。
酒中の愚行が彷彿。

やっぱり寝付かれなくて、寝床から這いずり出て、洗面所で水を飲む。
外は霧雨、降る様に鳴く蛙の声。

538声 カキクケコキリコ

2009年06月21日

断り。
本日、和のカルチャースクール「ほのじ」にて、渡辺氏による、
小さなチェンバロコンサートが開催されました。
この夏至の宵に、著者、いささか酒など嗜んでおります。
よって、酒中混濁状態により、更新困難。
それでも、何やら記載されている、メモ用紙の走り書きによる更新、奉り候。

バロック音楽。
菜食の美学。
ルイ14世。
瓶ビール。
音色が浸透。
エコでエロ。
コキリコ節。
八木節祭り。
谷中の銭湯。
バースデーケーキ。
やけっぱちの痛飲。
寝床の悔恨。

537声 休日

2009年06月20日

予定の無い休日。
足が向く場所、あるかしら。
私はなんだか、電車に揺られたい。
文庫本一つ、お尻のポケットに入れて、玄関の扉を開ける。
足が向く場所、あるかしら。