ゴールデンウィークの後半くらいは、何処かに出掛けようと思っている。
「思っている」
と言う事は、現在時刻午前9時だが、未だ、自宅に居る。
先月末に、遅咲きの桜で、吟行及び句会をする予定があった。
鼻の具合が悪く、その予定をキャンセルしてしまったので、
何とも、心残りがある。
しかし、五月に入った今時期に桜を見よう。
ったら、群馬県内でも、相当山間部へ行かねばならぬ。
難しい。
と言うのは、桜と言う季題に対して、いつも感じる事である。
俳句で、たんに「花」と言えば、「桜」をさす。
それほど、日本人にとってはポピュラーな花であり、
伝統的に愛でて来た花である。
桜を題材にした作品は、我が国の文学史上、夥しくある。
そのどれもが、綺羅、星の如く居並んでいる。
和歌に短歌に、俳句に川柳。
この季題に関しては、古典がぐっと近づいてくる。
こと、俳句に限って言えば、思い浮かべるのは、貞室や芭蕉、蕪村に一茶。
そう言った俳人の、江戸時代を彩った句ばかりである。
これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉
花に暮れて我家遠き野道かな 蕪村
夕桜家ある人はとくかへる 一茶
むしろ近現代の名句の数々を思い浮かべる。
と言う者は、日々、俳句に親しんでいる、所謂、玄人であろう。
樹齢何百年と言う、長寿の花であるから、
そこから生まれた作品もやはり長寿である。
古典から離れて、しかし、乖離はせずに、
桜の句を読もうと、俳人たちは苦心する。
銭湯で上野の花の噂かな 子規
苦心ばかりでは面白くないので、こういう風に、肩の力を抜いて読む。
と言うのも、一興で、大切な事であろう。
そして、今年の所謂、俳壇には、「震災下の桜」が多く詠まれている。
それもまた、大切な事である。
あらゆる文芸作品は、常に「今」を意識する必要がある。
それは勿論、時代の中に生きている自分の、「今」である。
【天候】
朝より薄曇り。
曇りだが、空は明るい白さを保ち、終日、暖か。