日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

669声 私の意欲

2009年10月30日

一日は足早に過ぎ、気付けば夜半に酔眼朦朧。
日刊の更新をせねばと言う、私の意欲。
伝わらないであろう、この意欲。
這いつくばって帰って来て、茶漬けと一緒に啜る。
私の意欲。

668声 時に蕎麦の時期と相成り

2009年10月29日

今週末はもう11月。
こう寒い時期になってくると、寄席では「時そば」なんて演目が盛んになる。
「時そば」は言わずもがな、上方落語の「時うどん」を、
東京流に「そば」として複写した演目。
「一、二、三、四、五、六、七、八、今何時でい」
「へい、九で」
「十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、ごっそさん」
このくだり、この演目が好きな人なら、空で言えるくらいだろう。
そして、演目の一番の見せ場は、
演じる落語家が、蕎麦を手繰る時の描写である。
さも美味しそうに、「ズッズッズーッ」と勢いよく蕎麦を啜る音が、
観客に生唾を飲ませる。
この演目を観ると、「帰りに立ち食い蕎麦を」と思う。
秋の時期。
群馬県内、いや全国的に「そば祭り」なんてイベントを良く目にする。
今週末、あるいは来週末も、蕎麦を啜る美味しそうな音が、
紅葉の山間に響いている事だろう。
そう言えば、先日、栃木県足利市の銭湯の脱衣場で、
11月7日から開催される「足利そば祭り」ってなポスターを目にした。
其処で出会った、地元のおやっさん、毎年楽しみに参加しているんだとか。
「俺は、今年は、自分で天ぷら持ってって、天ぷら蕎麦にして食おうと思ってんだ」
と言う、ささやかな企みを打ち明けてくれた。

667声 県民のラーメン定食

2009年10月28日

快晴の今日は群馬県民の日。
学校が休みになった学生たちが、街に湧いて出て来る一日。
カツ丼だったら此処。
ってな店が下仁田町に在って、今日の昼飯は其処で食べていた。
私が頼んだのは、ラーメン定食。
案ずるなかれ、その内容は、ラーメンと丼飯に、煮カツが付いてくる。
なので、皿に盛られている煮カツを丼飯の上へ乗せれば、カツ丼になる。
因みに、この店のカツ丼は煮カツで、この「ニカツ」ってのは、
カツを最終的に卵でとじていない、汁で煮たもの。
卵とじも捨てがたいが、これも卵とじに負けず劣らず、あっさりして美味い。
私も群馬県民のはしくれ、今日は県民の日だからってんで、奮発してのラーメン定食。
いつもなら、50円安いカツ丼を注文していた。
ラーメンとカツ丼。
私が額に汗しながら、このベビー級の試合に奮戦して居ると、ガラガラっと引き戸。
威勢の良い声と共に、ゴム毬の如く、ちびっこいのが5人。
近所の小学生だろうか、慣れた風に椅子へ座り、賑やかに注文を話し合っている。
店内の空気は一気に明るくなり、さながら給食の風景。
その男の子5人、揃いも揃って、「オレ、ラーメン定食、オレも、オレも」
だって。
10歳をやっと少し越えたかと言う子供と、30歳にもうすぐ手が届こうかと言う大人。
県民の日のささやかにも奮発した昼飯が、ラーメン定食、800円。
バヤリースオレンジでも、奢ってあげれば良かったかしら。

666声 月と田圃と靴音

2009年10月27日

因果は巡って、肩甲骨の下に居座っている。
先日、あれは土曜日だろうか、いつのまにか深酒してしまい、翌日起きたら二日酔い。
おまけに肩こり、肩甲骨の下に不快感。
その後、火曜日になった現在でも、微々たる不快感が残っている。
因果は更に巡る。
いや、因果などと言ったら関係ある人々が眉をひそめるかもしれないが、
私にとって因果な事は明白である。
これも先日、某氏たちと飲んでいて、どう話が転んだのか、
12月に開催されるマラソンに、私も出場する運びになってしまった。
私、マラソンが大の苦手である。
当日の走行距離は10km。
歩いたって歩けるか不安な距離である。
しかも連日の不摂生、運動不足により、ここ数年、体力は著しく減退している事と思う。
そんな心肺機能に不安を抱えた状態で出場し、私の身にもしもの事態が起こったらなら、
関係各位にご迷惑。
せめて、冗談で済むくらいに、走れる状態を作っておかねばならない。
「ひっ、ひっ、ふぅー」
とこの呼吸法で大丈夫なのかと思いつつ、足取りも縺れつつ、
先程、家の裏の田圃を走ってみた。
夜のジョギングなど、何年振りだろうか。
やはり、体力は想像以上に落ちていて、体が鉛の如くに感じる。
おまけに、箪笥にジャージの類が見当たらないので、一応セットアップだってんで、
ジーンズにジージャンで出発。
それが仇になって、汗を吸ったら重たいの何の。
突然の運動で、鼓動が乱れる心臓。
他所の家の番犬に吠えられた拍子に、口から飛び出して、
夜の田圃へ逃げて行ってしまうのではないかしら。
そんなこんなで、およそ15分のジョギングも終了。
風呂上がりの冷麦酒がさぞや美味いだろうと思ったのだが、
心肺機能を酷使した為か、喉の滑りが悪い。
興を失い、ジョギングの原動が一気に削がれた。

665声 彼は誰時の深呼吸

2009年10月26日

今日は終日雨。
まとまった雨が降るのは久しぶりだ。
月曜日の朝からの雨降りは、非常に気が滅入る心持になる。
今朝、窓の外から何やら人の話声らしき物音が聞こえ、目を覚ました。
屋根を打つ雨音が、寝床から窓へ這って行く気力を削いでしまったので、確認する気も起らない。
完全に覚醒せぬまま、寝床で寝返りを打ちながら、夢現でその声を聞いていると、
声の主はどうやら独りの様である。
「はい、はい、えっとじゃあ3部届けとけばいーんですね、はい」
エンジンのアイドリング音と共に聞こえるので、おそらく、新聞配達のおやっさんが、
玄関先に停車し、携帯電話で通話していると見て間違いないだろう。
それにしても大きな話し声である。
話し声が途絶え、「ガチャン」とギアを変速する音と共に、エンジン音が遠ざかって行った。
夜が明け切らぬ部屋は未だ暗く、時計の目視ができない。
朦朧としていた意識が徐々に覚醒してきたので、寝床から這い出て、窓を目指した。
カーテンの裾から手を入れて窓を開け、頭だけ出して外の空気を吸う。
彼は誰時の町は雨降り。
吸い込んだ空気を吐くと、呼気が白くなった。

664声 小山の湯に幸あり

2009年10月25日

1,450円。
今日買った、片道切符の値段である。
切符に印字されている文字は、「小山」。
曇天の日曜日。
両毛線で、隣県栃木までの小旅行。
目的は一つ。
小山市街地に残る最後の銭湯、「幸の湯」へ訪問する事。
往復、2,900円もかけて、一軒の銭湯に入りに行く。
冷静に考えてみれば酔狂な話だが、連日の二日酔いも重なって、
自ら酔狂たらしめようとしている。
だから、栃木県の銭湯にまで手を出してしまう。
小山駅を出て市街地を散策し、開店時間の15:30分に暖簾を潜った。
暖簾を潜ったのだが、日本人ってのは、
どうしてこうも「一番風呂」ってものにこだわるのだろうか。
暖簾が掛かるやいなや、洗面器抱えて待っていた地元のおやっさん。
番台にお金を置いて、「いざ鎌倉」って具合に血相変えて、脱衣場へ突進して行く。
私の方も、浴室の写真を撮らなければ、何の為の2,900円だったか、と言う崖っぷち。
番台のおやっさんに了承を得て、服も脱がずに浴室へ行き、
慌てふためいてシャッターを切る。
2,3枚撮ったところで、先程の洗面器親父が、早くもカランの前に陣取ったので、
浴室内撮影は終了。
もう、靴下ビチョビチョ。
入ってから撮る場合と、入る前に撮る場合がある。
圧倒的に、後者の方が心労が少なく、その後の湯をじっくり楽しめるので、
出来れば撮影後に入浴したいのである。
それが非常に厳しい戦いなのだが、その後、湯船に浸かって得る充足感と言ったらない。
幸の湯はとても綺麗な銭湯で、おやっさんも親切であり、何より湯船が広い。
ジェット噴射が4基も付いていた。
湯から出るのは、私が一番早く。
ゴクリと瓶牛乳を一気飲みして、銭湯を後にした。
湯上りの風が心地よい。
のだが、靴の中だけが、どうにも不快であった。

663声 丑三つ時の麩チャーシュー

2009年10月24日

起床して、カーテンを開けたら、曇天。
空には厚い雲が垂れこめていて、気分もどんより。
昨夜丑三つ時、寝る寸前に食べたカップラーメンの所為で、胃腸はげんなり。
「こりゃ大将、肉汁を吸った麩じゃないのかね」
と、深夜の台所で独り、芝居がかって割り箸を振り回している。
カップ容器の中、醤油ラーメンの汁。
プカプカと、どこかひょうきんそうに浮かんでいる、チャーシューが一枚。
しかしまぁ、よくもここまで薄く切れたものだと、つまみ上げて透かして見る。
口へ運べば、なるほど、化学の力は偉大である。
半ば関心を混ぜた、ため息ひとつ。

662声 午前零時の幻影

2009年10月23日

目当ての映画を観終え、自宅へ帰って来た。
遅い上映時間だったので、家へ着いたのは、
既に日付変更線を跨いだ後だった。
帰る道々、本稿の更新内容を推敲しつつ、アクセルを踏んでいた。
明りが遠くに見える田圃道。
宵闇を掻き分ける様にして、家路を急ぐ。
其処の街路灯の角を曲がれば、自宅。
と、瞬間。
街路灯の薄明かりの下。
ブロック塀に手を突いている、人影。
揺らいで消えた。
あれはいつかの私。
深酒の末に半べそかいている、憐れな男の幻影。

661声 ラジオと林檎

2009年10月22日

公園の駐車場。
街灯の下、車を停めてじっと待っていた。
17時20分になるのを、である。
先日の事、知人から連絡が有り、「FMラジオで曲が流れる」と聞いた。
夕方17時からの番組で、曲が流れるのは17時20分頃だと言う。
出演者の作家さんが選曲した楽曲を流す。
と言う形式のコーナーで、メジャーデビューも、
ましてやインディーズレーベルにも属していない、その知人の楽曲を選曲するとは、
なかなか粋な計らい。
やがてカーラジオから、聞き覚えのある曲と歌声が聞こえて来た。
私がCDを借りて自宅で聞いていた時よりも、同じ音源なのだが、
そこはかとなく曲の完成度が高い様に思われた。
短い間だったが、私を含めた知人一同、群馬県内のどこかでこの時間、
固唾を飲んで、ラジオに耳を傾けていた事だろう。
曲が終わって、ぼんやりとフロント硝子の遠く、黄昏色が濃くなった榛名山を臨む。
山裾へ沈む残光が、熟れた林檎の如き赤色で、夜空へ滲み出していた。
一寸、笑って頷き、エンジンキーを回す。

660声 ジーンズスパイラル 

2009年10月21日

880円ジーンズ。
現在、巷で話題を呼んでいる、激安ジーンズだ。
小売り大手である、イオンとダイエーのプライベートブランドから発売されていて、
秋の衣替えのシーズン、大幅に売り上げを伸ばしているらしい。
効率の良い生地購入や生産工程、そして自社流通。
さらに、ウエスト、レングスなどで多彩なサイズラインナップがあり、
丈詰め代金が掛からない事も、経費の節減になっている。
しかし、ジーンズ一本買って、千円札でお釣りの来る時代である。
そして、追い打ちをかけるように、西友が850円ジーンズを発売し、
ドンキホーテは690円ジーンズを11月に発売すると言う状況だ。
「デフレスパイラル」
って言葉を、まさに連想してしまう。
因みに、ジーンズの原点である、リーバイスの501。
巷の小売店で新品を買うならば、概ね9,800円前後であろう。
どんなに安くたって、6,000円を切る事は無いと、ほぼ言いきれる。
この、「ジーンズいくら」ってのは一種のパフォーマンスで、
ジーンズを買いに来た客の相乗売り上げ効果を狙っての事。
などと安直な想像はしてみるものの、安さに舌を巻いてしまう。
ちょっとしたラーメン屋ならば、ラーメン一杯880円くらいは取るだろう。
ラーメン一杯とジーンズ一本が同じ価格。
である。
そう言えば、近頃街中では、古着屋やリサイクルショップの店が増えている。
一昔前のこの手の店の主流と言えば、「プレミア品」や「レア物」といった類で、
中古にも拘らず、発売当時価格の何倍もの値が付いていた。
しかし今となっては、実用的で価格の安い物が、陳列棚の大半を占めている。
となると、880円ジーンズを中古で買った場合、いくらになるのだろうか。
恐るべき、スパイラル、スパイラル。

659声 秋の散文

2009年10月20日

朝方、缶珈琲で温まりながら、秋空をぼんやりと眺めていた。
浮かんで来る言葉は、空にあるうろこ雲みたいに、散文的であった。
秋の朝
カーテンを開けると
溢れた光が部屋を満たす
空は青
色硝子の如く
澄んでいる
川あり
流れ緩やかなり
緩やかなれど
大海に遠し

658声 三味線と両毛線

2009年10月19日

昨日の伊勢崎中心市街地はいせさき燈華会(とうかえ)って催しで、
俄かに活気づいていた。
阿波踊りや、チアリーディング。
演奏会に、伊勢崎神社境内でのジャスコンサートなど、路上の熱気が、
秋空にまで伝わる様であった。
日が落ちてからは、路上に何百と置かれた燈籠に点灯し、
しばし幻想的な空間に酔った。
私が実質的に酔っていたのは、その30分後である。
そして、街を流転し、伊勢崎駅から終列車に転がり込んだのは、22時59分。
列車は酔っぱらいを乗せて、寝静まった街を走る。
窓の遠く、街灯に照らされる柿木の実が、闇を吸って色づいていた。
などと、気障ったらしい締めくくろうとしてしまうのも、
やはり、伊勢崎の街中で見た、幻想的な燈籠の灯の為だろうか。
あるいは阿波踊り。
耳の奥に残る、三味線の叙情的な旋律の為だろうか。

657声 湯は故郷

2009年10月18日

栃木県の銭湯に手を出している。
昨夜は、足利市にある「花の湯」へ入って来た。
整備された小路に、堂々たる破風を構える大型の銭湯で、
規模、建築様式共に、群馬県では類を見ない。
しいて言えば、高崎市の浅草湯が近しい。
豪奢な造り。
と言える銭湯で、かつての街の栄華が窺い知れる。
室内に使用されている木材。
浴室、章仙の九谷焼のタイル絵。
そして、ペンキ絵は壁一杯に描かれており、首を傾けて見る、壮大な眺め。
戦前の気風を感じつつ、歯を食いしばって、熱い湯船に浸かっていた。
脱衣場で出会った地元のおやっさんと、小一時間ばかり語った。
子供時分の銭湯の事、花街の事、昭和初期の事。
「面白くねぇ」
ってのが、その初老のおやっさんの口癖で、それを連発しながら、
現代の街は面白味に欠けると嘆いていた。
戦前の「カフェー」に行くのがおやっさんの夢で、
この決して叶わぬ夢へ、パンツ一丁で思いを馳せていた。
もし、花の湯が終焉を迎え日が来たら、浴室のタイル絵を貰う約束をしているんだ。
そう言って笑うおやっさんの笑顔は、昭和30年代に、
この花の湯へ入っていた洟垂れ小僧の頃と変わらないのだろう。
湯は故郷。
故郷に会える街が、在って欲しい。

656声 街は人 後編

2009年10月17日

昨日の続き。
例えば、「谷根千」なんてどうだろうか。
谷根千ってのは、東京の谷中、根津、千駄木の愛称で、
同名の地域雑誌も今年の8月まで発売されていた。
この地域は、東京23区では下町に該当する、謂わば都内の地方である。
にもかかわらず、不動の人気を誇っている地域なのだ。
休日や祝祭日、つまりは観光日和。
JR日暮里駅を出て、谷中銀座商店街まで来ると、肩がぶつかる程の人波。
その多くは、首からカメラをぶら下げた、国籍も様々な観光客。
しかしその活気を作っているのは、観光客たちでなく、商店の人たちなのである。
安価な料金で、昔ながらの揚げ物を店頭販売する店。
香ばしい匂いに釣られ、往来には直ぐに列ができる。
店頭にサーバーを置いて、その場で生ビールを売っている店。
店の前に出してある椅子に腰かけ、はたまた路上に立って、ビールを飲む人だかり。
店の人、誰もが活き活きしており、それが商店街に活力を生んでいる。
商店街を過ぎ、街中へ入ると、民家を再利用した洒落た商店が点在しており、
若き芸術家たちが集う場所となっている。
勿論、銭湯、古本屋、食堂、団子茶屋、飲み屋なども残っており、
市井生活との共存が伺える。
私も、ふとこの谷根千を歩きたく思い、出掛けた時はやはり、
人に会いに行く様な心持で出掛けた記憶がある。
特に誰と言う知り合いはいないのだが、街に生きる、街を活かす人がある。
それは、商店のおばちゃんだったり、食堂のおやじだったり、銭湯の番台だったり、様々。
街を歩きたくなる衝動は、人に会いたくなる衝動。
とも、私の場合は、言える。

655声 街は人 前編

2009年10月16日

「街にはやはり、人が見えてこないとな」
と言う思いが、私の模糊たる思考にある。
酔眼朦朧として、筋道を立てて一文を構成出来そうにもないので、
要点のみを少しばかり。
「街歩き」
ってのが、近頃の地方都市における観光戦略の大きな課題らしい。
課題になっていると言う事は、他県から来る観光客が、街歩きをしていない言う事になる。
他県から高速道路で来て、観光地へ寄って、また高速道路で他県へ帰る。
と言う一辺倒な観光だけでなく、市街地も歩きながら観光して欲しいと言う目論見である。
どの地方都市の市街地にも、観光資源は在る。
文化施設、寺社仏閣、歴史遺産、商業施設。
それなのに、何故、休日になると街が閑散としてしまうのか。
極私的な見解だが、そこに人が見えて来るかどうかだと思う。
観光資源が見えている街でも、人が見えてこない街には、
観光客はおろか、土地の人間さえ寄りつかなくなってしまう。
大きな要因はそこにある。
こんな筈ではなかった。
「要点のみを少し」ってのは、案外うまく行かないものだ。
では、掲載可能な文字量を超過してしまったので、明日へ続く。

654声 旅行けば横丁のおでん屋に故郷を見る

2009年10月15日

味の染みた、厚切り大根。
よく煮しまった、がんもどき。
こう夜が冷え込む時期になると、おでんの事を考えてしまう。
現に先日、近所の居酒屋に行くと、お通しに小鉢のおでんが出て来た。
私は上州人なので、おでんと言えばごく普通の、コンビニおでんを思い浮かべ、
これと言ったこだわりも無い。
しかしこれが、静岡の人となると話が一筋縄でいかない。
静岡と言えば、日本屈指のおでん大国。
地元の「静岡おでんの会」が作った、
「静岡おでんの五ヶ条」に基づいて定義される静岡おでんとは、
まず黒はんぺんが入っている事。
黒いスープである事。
串に刺してある事。
青のり・だし粉をかける事。
そして、駄菓子屋にある事。
最後の駄菓子屋にあるってところが、月島のもんじゃ然り太田の焼きそば然りで、
土着のソウルフードと言った感がある。
私も去年、「おでんの聖地」と言われている「青葉横丁」へ行き、
紺暖簾を潜って来たのだが、味、値段、そして何よりあの雰囲気を気に入った。
その時、L字カウンターで居合わせたおやっさんは、わざわざ東京から新幹線に乗って、
この静岡おでんで一杯やりに来るのが、ささやかな楽しみだと言っていた。
そして、その店の女将さんは、昔太田に住んで居た事があったとの事。
なんとおやっさんも絵が好きで、伊香保に寄った時は、
必ず竹久夢二伊香保記念館へ行くのだそうだ。
群馬県から来た、一見旅客の私と、おでん屋の女将と、その常連。
見ず知らずのお互い、湯気の向こうに奇妙な接点の糸を見た、夜があった。

653声 観察と改革

2009年10月14日

政権が代わり、着々と行われている行政改革。
ってのは、私の様な政治情勢に疎く、北関東の片田舎に逼塞している人間でも、
日々の新聞紙面やテレビニュースを見てれば分かる。
しかしそれは、間接的に得る情報。
面と向かってその人を観察する事によって得る、直接的な情報ではない。
私が街で得る、多くの直接的な情報は、どれも瑣末な事象である。
床屋の店主が話す、近所の美味いラーメン屋。
食堂のおばちゃんが話す、町内の噂話。
飲み屋の親父が話す、酔街界隈事情。
銭湯の客同士で語る、故郷今昔物語。
この様に、瑣末かつ取るに足らない程粗末な情報であるが、
どちらが自らの生活に影響を及ぼすかと言えば、直接見聞きした情報だと言える。
市井から得る情報は、純度が高い。
改革を成し遂げようとするならば、まず観察。
政治を扱う先生方は、どうだろう、大所帯で行く視察などではなく、お忍びで、
直接的に観察してみては。
一度銭湯へ入って、近所の常連の親父が話す、
べらんめぇ調でも聞いてみるべきではなかろうか。

652声 水の冷たさ

2009年10月13日

秋晴れの清々しい朝。
高崎から富岡を抜け、下仁田を経由して上野村まで行って来た。
車窓より仰ぎ見る山々は、薄っすらと紅葉し始め、衣替えの真っ最中。
冬に向かう山は、何だか大人びている。
そうだ、今朝の事である。
と、いつにもまして、世間話文体になっているが、進める。
私は毎朝、起床してから、まず水を一杯飲むのが習慣になっていて、
今朝も例外なく一杯。
ペットボトルのミネラルウォーター。
なんて言う、都会派ではないので、蛇口から出る水を飲む。
コップの水を飲んで思った。
冬も随分と近くに来たなと。
その水が、冷たかったのだ。
水が冷たいと言う事は、水道管が冷えていると言える。
日照時間の長い秋晴れの日は、放射冷却で夜が冷え込むので、気温が下がる。
それがやがて冬になると、冷え込んだ夜の次ぐ朝は、
水道管が凍結していて水が出なくなる。
なので、前の晩に少し水を汲んでおくのが、冬の常套手段である。
そして今日は、終日快晴。
この分だと明朝も、冷たい水を飲むと思う。