日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

862声 雨にけぶる山並み

2010年05月11日

仕事で西上州、下仁田町、南牧村、上野村へ出掛けた。
今日は朝から雨降り。
久しぶりの、まとまった雨である。
そして、久々に見る山間渓谷の風景からは以前にも増して、
緑が生い茂っている印象を受けた。
一雨ごとに、山の緑も濃くなり、てらてらと艶めかしい生命力の充満を感じた。
その山間の道。
車を走らせていると、窓の向こうの山肌から、立ちのぼる湯気が見えた。
雨に降られ、山がけぶるっているのである。
その光景は何だか、風呂上がり、腰巻タオルのおやっさんを連想させた。
そう思うと、雨に濡れた艶めかしい山々も親しみやすく見え、軽く苦笑い。
小糠雨に降られている山は、何だか、気持良さそうであった。
晴耕雨読。
の生活と聞けば、悠々自適ながらも、雨の日、屋内に逼塞し晴れの日を待ちながら、
本を読んでいる印象を持っていた。
しかし、雨にけぶる山を見て、その解釈を新しくした。
晴耕が叶わない、雨読の日。
屋内に居ながらも、窓を開け、雨にけぶる山並みを眺めながら、本を読む。
軒先から落ちる雨音が奏でる調べを、BGMとしながら。

861声 ささやかな支援者

2010年05月10日

「次回作は、まだかい」
それまで溜まっていたものが、一気に押し出されたかの様な、
圧の強い声が、私に刺さる。
ラーメンを啜る手を止めて、見ると、テーブル一つ離れて対角線上に座っている、常連のおやっさんであった。
麺を嚥下してから、曖昧に頷きながら答えた。
「はぁ、先ずはどっさりある在庫が減ってからじゃないと、なんとも、どうも」
「一冊だけじゃよぉ、勿体ねぇからな、まぁ、頑張れよ」
くゆる煙草の紫煙で目が染みるのか、眉間にしわを寄せながら、
おやっさんは笑った。
私も、なんだか嬉しい様な可笑しい様な、温かな心持になり、一寸返事に困って、
「はい」
と、笑いながら答えた。
おやっさんとは、この食堂で以前から面識があったのだが、
常連の多くがそうであるように、顔見知りだが親しく話す様な間柄ではなかった。
それが先日、先頃出版した私の本に興味を持ってくれ、
(食堂のおばちゃんが宣伝した影響が強いが)
一冊、購入してもらったのだ。
話を聞けば、並々ならぬ銭湯フリークなおやっさん。
私などとは比にならない位、銭湯に掛ける思い入れが強かった。
しかも、現役の銭湯ヘビーユーザーでもある。
ホームグランドは高崎市。
ささやかなる支援者を得た私は、ひとしきりラーメンを啜り終えると、
額に滲んだ汗を、ハンカチでそっと拭った。

860声 南中時刻の庭

2010年05月09日

今日は爽快な五月晴れであった。
ふた昔前くらいだろうか、今日みたいな休日の良く晴れた日には頻繁に、
セスナ機が飛んでいた。
中古自動車販売会社の宣伝を流しながら、広域を旋回飛行している機体である。
未だ、学校も週休二日制でなかった頃の土曜日。
午前で放課になった学校の帰り道、青空から響く、
セスナ機のエンジン音と、その宣伝文句が思い出に刻まれている。
南中時刻の自宅前。
猫の額ほどの庭で、庭木たちに水をくれていた。
じょうろを傾けながら歩いていると、芝生の上に蠢いている一匹のミミズ。
半ば干からびており、その生命の灯火も、今まさに燃え尽きようかと言った具合。
行き場の無いミミズに、せめてもの死水と、じょうろの水をかけてやる。
向いの家のブロック塀。
その上を、何処かの家猫が、暢気な顔して歩いて行く。
ミミズに目を落とすと、コロリ、往生。
青空の彼方から、何処かのジェット機、やって来て。
「シューッ」と、切り裂くようなエンジン音。
音だけ残して、行ってしまった。

859声 万事急須

2010年05月08日

休日。
のんべんだらりと日を送っていると、
夕暮。
のらりくらりと生活の波に揺られていると、
急須。
蓋を開けて、中に入れたものは茶葉、でなくインスタントの、
珈琲。
気付いたのだが、ポットから湯を出し、軽く回して注ぎ入れた、
湯呑。

858声 雨の日のジンクス

2010年05月07日

雨の日、古本屋へ行くと、思わぬ掘り出し物に出会える。
ジンクスと言う訳でもないが、結果からみるに、そう思っている。
勤め先から帰宅途中、黄昏の街は雨上がりだった。
寄り道して、チェーン店の古本屋。
「105円」の棚、「あ」行の作家から、背表紙を刷毛でペンキでも塗るかの如く、
顔を近づけて、丁寧に物色して行った。
すると文庫本、みるみる、私の手に高く積まれる。
つまりは、掘り出し物が多く見つかったのだ。
購入できずにいた本が、次々に現れ、雨の日のジンクスが、
私の中で一層強固なものとなった。
「井伏鱒二」に「海音寺潮五郎」と来たところで、ふと、手が止まった。
思考に横やりを入れてきたのは、昔読んだ、エッセイ。
井伏鱒二作品の「文士の風貌(福武書店)」の中にある、「入隊当日のこと」。
その中、井伏さんが戦争中の陸軍徴用で、大阪市の兵隊屋敷に入隊した時に出会った、
戦友、海音寺さんの描写が出てくる。
釣師の服装をして、細身の軍刀を入れた竿袋を持って入隊した井伏さん。
その井伏さんが見た、海音寺さんの風貌が強烈である。
抜粋すると、
「朱鞘の大刀を眞田紐で普断着の背中へぶら下げていた」
まさに、海音寺さんの小説に登場する、激動の時代を駆け抜けた歴史上の人物。
著者自身が地で行っている。
そんな姿が茫漠と頭に浮かび、一瞬怯んだが、恐る恐る本棚から抜き取り、
しっかりと手の中へ納めた。

857声 午後の並木道

2010年05月06日

伊香保か草津か、それとも四万か。
高崎から前橋へ抜ける国道には、温泉地にでも行くのだろう、
県外ナンバーの車が、未だ多く見られる。
今週までは未だ、ゴールデンウイークの余波が続くと思われる。
それにしても、5月に入った途端に、この暑さや如何に。
連休中などは、列島各地で、軒並み夏日を観測。
今日も、関東地方などに至っては、30℃手前あたりまで、気温が上昇。
水ばかりがぶ飲みしている私などは、早くも、夏を前にして夏バテ気味である。
倦怠を引き摺りながら、前橋市街を、だらだらと歩いていた。
往来で信号待ち。
午後の日盛りから逃れるべく、路面の影に、体を入れる。
風が一筋吹いて、影が揺れ、日光が射す。
見上げると、並木の欅。
その新樹から、時折、太陽の光が洩れ、まるで万華鏡の如くきらきらと輝いている。
信号が青になって、私は歩く。
なんだか嬉しくなって、少し駆けた。

856声 地元の湯屋で

2010年05月05日

菖蒲湯や坊主頭の子がひとり

855声 広瀬川の畔で

2010年05月04日

故郷や杜の都の五月川

854声 そして、仙台へ

2010年05月03日

松島やゴールデンウィークの松島や

853声 出発の朝

2010年05月02日

朝起きて、カーテンを開けずに、
ともかく、出掛けてみようではないか。

852声 友の結婚

2010年05月01日

結婚式の受付。
と言う役割を、何とか無事にこなし、式に参列し、
千鳥足で何とか自宅へ辿り着いた。
新郎新婦の泪。
一滴採取し、プレパレート載せて、顕微鏡を覗いてみれば、
絵にもかけない美しさ。

851声 新しき心でおでかけ

2010年04月30日

今日、県下広域に店舗を持つ書店に、まとまった数の本を納品して来た。
これによって、ゴールデンウィーク明け頃には、今よりも少しばかり、
群馬県内広域圏で買えるようになる。
と言う算段。
ともあれ、世間は黄金週間真っ只中。
高速道路上り、渋滞ピークは明日らしい。
渋滞を避けて、海外は無理だが、国内のどこかローカルな場所へ行ってみようかと、
漠然と考えている。
いささか、ならず、大分、出遅れ気味の黄金週間だが、抜き差しならぬ予定もあるので、
仕様が無い。
新しいシャツでも着て、最寄りの駅から、適当な切符でも買って、出掛けてみよう。
こう、机上で旅への空想と戯れている時間が、旅の甘美である。
朔太郎も、フランスへの旅に胸を焦がしながら、
「せめては新しき背広をきてきままなる旅にいでてみん」
と空想していたのだろう。
「新しき背広」
が重要なのだ。
ローカル線の車窓。
窓を少し開けて、心地好い五月の風を受けながら飲む、缶麦酒。
新緑の山渓は、きらきらと萌え輝いている。
と言った、空想ならぬ妄想を抱きつつ、一向に計画は進捗しない。

850声 バス停の誓い

2010年04月29日

正午過ぎのまどろみ時間。
ほのじ店内の隅で、こそこそやっていたら、御客さん2名来店。
二人とも、70代に入ったかどうかと言う年頃の、女性。
横目でその挙措を見るに、どうやら、一見さんらしい。
比較的、空いている店内、微かに聞こえてくる2人の会話を聞いていた。
「あー美味しかったわ、また会ったらさ、きっと来ようね、奥さん」
「そうだいねぇ」
バスの時間を気に掛けながら、満足して店を後にして行った、ふたり。
その会話から推察すると、つまりはこう言う事らしい。
伊勢崎駅前からバスへ乗ろうと、停留所で待っていた2人。
2人は、他人同士。
公共交通機関に不慣れなであり、一向に来ないバスに不安を抱き、
どちらかが声をかけたのであろう。
改めてバスの時刻表と腕時計を照らし合わせると、2人が乗ろうとしている次のバスは、
来るまでに1時間ほど掛かる模様。
落胆の共有から、自ずと2人の話が弾んだ。
時刻は昼時、俄かに意気投合した2人は、「何なら昼御飯でも」と言う話の運びで、
ほのじを見つけ、暖簾をくぐったと言う訳である。
威勢の良い奥さんと、控え目な奥さんのコンビであり、威勢の良い奥さんが、
気前良くおごっていた。
人気の無い駅前のバス停。
偶然会った見知らぬ人と、昼飯を食いに、見知らぬ店の暖簾をくぐる。
そして、「また会ったら、きっと来ようね」と、誓い合って別れる。
このなんとも粋な心意気が、昭和の日の今日に、相応しい光景であった。
昭和の時代を力強く生きて来た、彼女らの様な人たちがいるから、今の時代が面白い。

849声 昭和の抜け殻

2010年04月28日

明日は祝日、昭和の日。
天気予報は晴れだが、言われなくったって、分かっている。
過去3年、つまりはこの「めっかった群馬」が立ちあがってからは、
雲一つなき五月晴れであった。
そして、毎年、気温が20度を超え、夏を感じさせる濃い日差しを、
伊勢崎市の路地裏で受けていた。
今年は、その路地裏へ出掛ける用事も無かったのだが、因果因縁とは侮りがたきもので、
急遽、伊勢崎市へ出掛ける用事が出来てしまった。
しかし、それまでの年と違う点は、クレインダンス事務局(と言っても、ほのじであるが)
へ逼塞して、日がな一日、作業する事になりそうだ。
「いせさきアーティストフェスタin路地裏」
と言う、毎年、昭和の日に開催されていたそのイベントも、
この「めっかった群馬」と言うサイトも、多分に「昭和色」が強い。
それもあってか、このサイトなどを贔屓にしてくれている方から、時折、
質問される機会がある。
「昭和文化の保存ですか」
と、直球勝負。
こちらも、その方が質問内容の芯を捉えやすいが、私の打ち返す球は、
きまってファールボール。
三振覚悟で、説明をつけるならば。
昭和から平成に時代は移った。
あるものは、地中から這い出た蝉の如く、古い殻を脱いで、
美しい羽を持つ成虫へと脱皮し、大空へ飛びたって行った。
また、あるものは、蛇や蜥蜴の如く、古い皮を脱ぎ棄てた。
脱ぎ捨て、その本体は確実に成長しているのだが、体表面に目立った変化はない。
日盛りの中、大きな止まり木にしがみ付いて、ミンミンと蛙鳴蝉噪しているものよりも、
私は何故か、脱皮を繰り返しながらも、未だに、ジメジメとした日陰で、
ひっそりと蠢いているものに魅かれるのだ。
とまぁ、ここらで三球三振バッターアウトって、場面だろう。

848声 県民としての実感

2010年04月27日

今週末から、いよいよゴールデンウイークに突入するらしい。
らしい、と言うのは、どうもその実感が薄いのである。
今年は、連休の並び具合が良く、中には11連休や7連休なんて人も多くいるらしい。
また、らしい、と言うのは、カレンダー通りに休もうかと考えているので、
これも実感が薄い。
実感が薄い事もあり、ゴールデンウイークは予定など立てず、家でゆっくりと、
渋滞情報を肴に昼麦酒でも呑もうか。
などと、連休中は安穏な生活を送ろうと、決め込んでいた。
しかし、日一日と連休が迫って来るにつれ、何だか強迫観念めいた旅行欲求が、
湧いて来ている。
この時期、友人知人と会話しようものなら、二言目には、
ゴールデンウイークの予定を聞かれる。
テレビの電源を入れれば、各地の行楽情報。
雑誌を捲れば、「GW特集」と、日常生活の中、こうも波状攻撃されては、
自ずと、「旅行に行かぬは損」と言う心持になってしまう。
私も、何処かしらの地方都市ないしは首都圏を、
ほっつき歩いてこようとは思っているが、今年の高速道路は、前例を遥かに凌ぐ渋滞が、
懸念されているらしい。
この、らしい、と言うのも、車で遠出する予定がないので、実感が薄いのだ。
ゴールデンウイーク明けは毎年、カーディーラーにある整備工場の予定が、
目一杯に埋まってしまう。
その大半が、事故車の修理。
総人口に対して、免許取得率が全国一位の群馬県民は、特に注意すべきであろう。
その実感があるので、連休中、電車で出掛けようと考えている私は、
無意識に車での遠出を避けているのかも知れない。

847声 俳句ing 〜その題材と演出について〜

2010年04月26日

「ワルノリ俳句ing」と言う活動を始めて、気付けばもう、丸2年以上が過ぎている。
群馬県内の小都市、或いは山村へふらりと出掛け、川柳以上俳句未満の様な、
しかし、時に真面目に俳句を詠んで愉しむ。
と言うのが、この活動の概略。
そして、約一年前、ワルノリ俳句ingが新聞に載った際、紙面に出ていた、
「題材求め旅 居酒屋で発表」
と言うコピーが、この活動の骨子を端的表現していて、気に入っている。
「俳句ing」
と言うのは、つまり「吟行」の事で、この吟行を始めて、更なる俳句の深みを知った。
何だか、まともな句も詠めないくせに、一丁前なセリフを吐いているが、
及ばずながらも、そう思った事は確かである。
それを再認識させたのは今日、知り合いから、我が携帯電話に届いた、一通のメール。
題は「さくら」。
本文には、著名な俳人の句が、ずらりと添えられていた。
全て桜に関する句だが、詠むと、句に認められた風景が、
脳裏に活動写真の如く映像化される。
そして、その映像の演出が素晴らしいのである。
喧騒な花見酒宴を見下ろす、桜並木。
月夜に照らされる、森閑とした山の桜。
そこには、雨が降っていたり、犬が歩いていたり、花の香りがしたり。
つまりは、自然の演出がある。
その演出を、やはり、「生」つまりは、実際に見て、体感する事が重要なのだ。
別の側面から見れば、その演出が、句を喚起すると言える。
その体験が、自らに俳句を詠まし得ると言っても良い。
その題材を、自然はどう演出するか、またその風景を自分はどう感じるか。
それを求めて、吟行の旅へ出て、結局は居酒屋へ辿り着く。
「むしろ、居酒屋へ辿り着く為に旅へ出るのでは」
と言う声も、聞こえてきそうだ。
同じ風景を見て、他人がどう詠むのかも、吟行の醍醐味と言える。
秋の夕暮れの電車内に居た、綺麗な女性。
当日、俳句ingに参加していた、私とTさん、その女性を題材に、
全く同じ様な句を、図らずとも二人して詠んでいた。
発表して思わず苦笑だが、そんな事だって少なからずある。
さて、次回、第14回を数えるワルノリ俳句ingを、5月末あたりに計画している。

846声 無きにしも非ず

2010年04月25日

今でも、井戸水で湯を沸かしている銭湯が多数ある。
今日、訪ねた大間々の銭湯も、その一つ。
湯上り、番台のおばちゃんと話していて、興味深い話を伺った。
それは、もしや何か温泉に相当する成分が、湯の中に含まれているのではなかろうか。
と言うもの。
そう思うようになった発端は、常連の湯客たちの声。
「すごく、あったまる」
「肌の調子も良い」
と言う、「井戸水」で得られる効能。
その域を出る、反響の声が多いのである。
私の鋭敏でない皮膚感覚では、その効果を判別出来なかったが、
そう言われてみれば、そこはかとなく、湯上りの「ぽかぽか感」が持続している。
この体の芯から湧く様な、温かさは、温泉に入った後のそれではなかろうか。
そして、大間々と言う赤城山麓の水系を引く立地と言う事も、背中を押している。
じゃあ、湯の成分を計ろう。
と、話はこう簡単なものではないのである。
まず、然るべき機関での成分調査も安価ならぬ、と言った具合なので、難しい。
しかし、温泉成分などなくとも、広い湯船に入るだけで、十分な効能がある。
その証拠に、心身ともに、あったまる。

845声 月夜、呑んだくれ

2010年04月24日

半額値札の、刺身皿
机に並べて、低級酒
呑んでる男、空しさよ
侘びしさよ、切なさよ
夜の底から、月を見る
侘びしさよ、切なさよ
呑んでる男、半笑い